公序良俗を乱し人権を侵害する表現を取り締まる法律として「メディア良化法」が成立・施行された現代。
超法規的検閲に対抗するため、立てよ図書館!狩られる本を、明日を守れ!
敵は合法国家機関。
相手にとって不足なし。
正義の味方、図書館を駆ける!
笠原郁、熱血バカ。
堂上篤、怒れるチビ。
小牧幹久、笑う正論。
手塚光、頑な少年。
柴崎麻子、情報屋。
玄田竜介、喧嘩屋中年。
この六名が戦う「図書館戦争」、近日開戦!
書店員としては、無料で本を読ませてしまう図書館は、敵認定するしかない。
書店員になる以前から、本を書いた人、本をつくった人、そしてそれを読者のもとに届ける人たちから生活の糧を奪うという意味において、図書館は新古書店(ブック〇フなど)と並んで悪だと思っていた。
本を思うように買えない子供たちには解放されていてよいと思うけれど、いい歳した大人が電車の中で図書館で借りた文庫本(!)を読んでいると、
「買えよ、そのくらい」
と思ってしまう。
でも、それはそれ、これはこれ。
やっぱり面白いものは面白いのである。
「メディア良化法」は取り締まり強化のために「良化特務機関」を設置、対する図書館側も「図書隊」を結成し、両者が死傷することすら超法規的措置として認められるという、血で血を洗う抗争にもつれ込んだ。
…というのが、この世界の設定。
あり得ないことだとは思っている。あくまでSFの世界だと。
けれど、頭の片隅ではちらりと「もしかしたら」という思いもないわけではない。
たとえば、猟奇犯罪が起こる。
その犯人の部屋から、スプラッタ映画のDVDだの、ゾンビをライフルで撃ちまくるようなゲームだのが見つかったら、マスコミや教育関係のセンセイたちはここぞとばかりに騒ぎまくる。
そういう暴力的な映画やゲームがあるから、こういう犯罪を増長させるのだ、と。
「現実世界と虚構の区別がつかない子供たちが増える」という正義の旗印のもとに、彼らはゲームや映画、ドラマや小説、漫画を規制しまくる。
もちろん、ただただ扇情的に暴力シーンを描いたものも存在する。
そういうものは僕だって好きじゃない。
けれど、中にはそういうものを通して別の何かを描こうとしている人だっているのだ。
にもかかわらず、教育関係のセンセイがたは、中身など見ていない。
どれもこれも同じように見えているから、批判するときは一緒くただ。
僕はスプラッタ系のストーリーや、暴力表現が多い漫画なんかは好まないから、実は庇いだてをする必要も感じないのだけれど、それでも、ある種の「わかりやすいだけの」イデオロギーが一方的に文化を押し潰そうとする動きは肯定できない。
そっちのほうが、よっぽど暴力的じゃないかな。
スプラッタ映画や暴力的なゲームに年齢制限をつける程度で収まっているならば、まだ許せる。
だけど、それがこれから先、過激になっていかないとは言えない。
本作のような仮想世界に絶対にならないとは、誰にも言えない。 本作の中でこういう言葉が出てくる。
「本を焼く国ではいずれは人を焼く」
誰もが心に刻むべき教えだと思う。
本は文化だ。
文化を破壊する国は次に人を焼く。
人を焼く国はいずれ必ず滅びる。
焚書を行った帝国「秦」はあの広大な中国大陸を統一したにもかかわらず、たった二代で滅びた。
そんな世の中で、図書館と本を守るために、戦いを続ける図書員たちの奮闘ぶりをコミカルに描いているのが本作のメインストーリー。
本作の主人公、笠原郁は、運動能力抜群、事務処理能力最低の新米図書員だ。
彼女は学生時代に自分と本を救ってくれた図書員に憧れ、自分も本を守りたいと図書員になった熱血漢。
素直で元気、明るく無鉄砲、度胸もあるけれど、一方では涙もろく、純情一途の乙女でもある。
彼女の上官は、厳しく強い堂上。
郁曰く「もうちょっと分かりやすく優しくてもいいと思います」という、優しさを素直に表現できない男だが、肝心な場面では頼りになる、郁にとっては最高の上官だ。
実は郁が学生の頃、良化特務機関から守ってくれたのはこの堂上なのだが、郁はまったくそれに気がついていない。(読者はすぐ気づくというのに)
この二人のラブストーリーがどうなっていくのかも本作の見どころ。
堂上と郁以外にも、隊長の玄田や、笑い上戸の上官・小牧、郁と同室の友人・柴崎、郁のライバルである同期の手塚ら、魅力的なキャラクターがたくさんいて、ともすれば重く殺伐としてしまいそうなテーマを明るく楽しく描いている。
戦闘シーンも不愉快な気持ちにならずに読めるのは、著者の軽快な筆致とともに、キャラクターの魅力というのが大きいだろう。彼らの掛け合い漫才は本当におかしい。
「万引きの汚名を着てまでこの本を守ろうとしたのは君だ」