朝5時半の始発に乗って、一路庄内一人旅。


10時半に鶴岡に到着してから、レンタサイクル自転車を借りる。最大目的の荘内大祭は午後からなので、それまでの時間を使って、図書館本と史跡巡り。


まず、図書館までの道すがら、『大昌寺』へ行き大島武助君の墓お墓を探しに。…が、こちらは期待してなかったので、予想通りっちゃ予想通りなんですが、やはり見つからず、お寺の方に聞くも、現在「大島」という檀家さんは居ないらしく、無縁になった墓は10年程で壊して無縁墓地行きなのだそう。他の家で管理しているという奇跡が起こらない限り厳しそう…。切ない…。


そこから、『正覚寺』へ。ここは大山庄太夫の墓お墓があるので知られている寺ですが、今回の目的は『遠藤厚夫墓』場所も判らないし、ヒントも無いから、苦労するかと思って、とりあえず大山の墓お墓の近くに行くと、奇跡的に発見。こりゃ幸先良いゾ、と次の『常源寺』へ。ここは『北楯小八』の墓を探しに。これもヒントも場所も判らなかったのですが、入口すぐ脇で発見。


月虹徒然日記

ここでお昼近くになったので、お昼ご飯はAkiさんに教えて頂いた『茶寮 遊』へ。ご飯ごはん・味噌汁・小鉢・魚・冷やし茶碗蒸し・揚げ物・デザート・飲み物がセットになった『遊膳』を注文。静かな落ち着いた店の佇まいで、古い古民家を改築してしようしているのかな??



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2時から徳川信康慰霊祭があるのだけれど、とりあえず鶴岡郷土資料館(図書館)本へ。


図書館の目的は藩士白井重高が記した『続藩翰譜後御事跡』蔵書検索には出て来なかったが、鶴岡郷土資料館の蔵書検索は宛てにならないので、司書の方に書名を伝えると『あぁ藩翰譜ね』と言って、奥から3冊の和本を出して来てくれました。やはりデス…。図書館じゃなくて資料館の所為なのか、貴重資料は軒並み蔵書検索に出てきません下げ不便です下げ


とりあえず、藩翰譜が読めるから良いやハートと開いてみると、ミミズ文字…まあまあ読みやすいミミズ…汗2とりあえず全ページコピーしたので、家に帰ってから解読デス汗2


その頃には2時過ぎてて、2時からの日枝神社での徳川信康公慰霊祭は間に合わず。でも一番の目的は3時からの『歴代藩主墓前祭』なのでNoプロブレム音符3時迄時間があったので、裏の安国寺へ。今回は中村七郎右衛門や酒井右京や松平十郎目当てではなく、別の墓だったのですが、やはり見つからず…。チェ、やっぱり戦死者は敗戦のドサクサで墓石作ってないのかしら??イヤでも黒崎与助はあるし…でも与八郎君か子孫が作ったのかしら?だって立派だし。それなら納得いくかも。基本墓石は作られてなくて、子孫が居て、子孫がちゃんと改めて作っていれば存在するのかも??(まあ、明治まで生きてても見つからない人も居ますけど)



10分前になったので、大督寺に行くと、普段は堅く閉ざされた歴代藩主廟所が全開。しかも神主様とスーツ着たお爺様方の姿が。神式で祝詞を捧げた後、歴代藩主の墓前で花と御神酒を捧げる。(歴代とはいいつつ、だいぶショートカットしてたけど)しかし、普段見れない酒井忠篤サマや忠宝サマの墓お墓が見れて良かったハート


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その後、『総穏寺』へ。ここには、玄蕃サマの実妹の白井久井ちゃんd.heart*の墓お墓があります。他に白井重遠山岸貞文山岸嘉右衛門志賀清任の墓お墓があります。でも、宮坂顕蔵の墓はやはり見つけられず…。ヒントも聞いたから今度こそと思ったのに…何故…汗2 はやりまた総穏寺はリベンジしなければ…。


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神主様の話だと、庄内の盆は7月なので、7月のお盆と、この慰霊祭の時だけ開けるらしいのです。もう次見れるのは一年後ですね。4時頃終わって、レンタサイクル自転車を返しに行かないといけないので、一旦駅に戻りながら途中『蓮乗寺』『高橋省助』の墓お墓へ。タクシーくるま。Bで荘内神社へ行き、宵祭の最後の『黒川能』を見る。


月虹徒然日記

能をちゃんと見るのは初めてだったので、楽しみにしていましたハート


しかも、黒川能は、玄蕃サマの祖酒井忠次氏縁の芸能なので、一層ですよハート 荘内神社の小さな舞殿で行われ、5時から8時まで。さすがに8時は厳しいので7時頃撤収しました下げ


夕飯は駅前の居酒屋で。だだちゃ豆枝豆とビールbeer


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今日はお昼ご飯を「会津らーめん 和」で、青じそラーメン。本当はソースカツ丼も食べたかったのだけど、今日は無かった(T_T)
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その後、随分前から行きたいと思ってた茨城の古河市にある熊沢蕃山の墓。
山鹿素行程有名では無いので、不勉強な事に私も先日まで知らないでいましたあせる
江戸初期の儒学者で、15歳で家康に仕え、16歳で板倉重昌、京極高通の薦めで備前池田光政に仕え、一度15年に致仕し、27歳で再度池田に仕える。

23歳の時中江藤樹に師事、現実に応じる政治的実践を学問の目標として、学校制度の樹立、寺院神社の統合、租税、相続、家産等の制度、治山、治水、水利工事等国政全般に及び、藩財政の立て直しに寄与したが、隠居後、京都に住み公卿等と交流するも、蕃山を煙たがる幕府により京都を追放され、蕃山は吉野山に隠れ、その後明石に移り、明石藩主松平信之が大和郡山に移されると、これに従う。
しかし、69歳の時、突如幕府により古河に移され幽閉される。幕府に送った「大学或問」に拠るとも言われる。
そして、元禄4年8月17日73歳で古河にて死去。


で、何故いきなり熊沢蕃山かというと、庄内藩のマイハニーハート酒井玄蕃サマが、文久元年10月、19歳の時に「熊沢先生芸術大意」を写しているのですヨ!武術・武芸の心の工夫を記した奥義書らしく、「みだりに人に示すべからず」な剣の極意書として流伝したものと思われるが…。

墓は古河市の鮭延寺。墓石は当時のものでは無く、後年建て替えられたものらしい。奥さんのイチさんの墓と並んで建てられていて、墓の脇には説明板、向かいには新しい碑が建立されてます。大事にされてます。
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熊沢蕃山について更に調べたくて古河市立図書館へ。古河市で発行した本などもあったものの、本当にもあったのですが、熊沢蕃山が無くなった時の藩主は松平信之で、以降幕末迄何度か藩主が変わった為に史料もちりぢりになて残ってるのが少ないらしい。
著書にも、秘伝書だからなのか芸術大意は載って無い。どうなんだろう??
今日はお盆前の仕事納め。とは言っても、本来は明日迄仕事なのが、急遽17日が出勤になったので、明日はその代休。

そして、親会社の福利厚生でやっているお花の教室に誘われて参加。
品川の駅ビル内に入ってる親会社のフロアで夜から10人程度で自由に。

今日は夏のミニブーケ。
ミニヒマワリと青ドラセナ、トルコキキョウ、ハイブリッド黄チース、ブラックベリー、モカラ蘭、大輪黄バラ、Gアンスで、個々の個性で花束を作りました!初めてだけど楽しかった~☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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終了後、7人で駅近くの「蔵の桜」という店で夕飯兼飲み。へぎ蕎麦がサッパリして美味しかった~ラブラブ
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今日も仕事。

就業後、昔会社を辞めた友人を含めて会社の同僚と、六本木の「USHIO」 というお好み焼き屋さんに行って来ました!

初めての場所だったのですが、ヘルシーなお好み焼きで、普通のお好み焼きの概念から外れるサッパリ系のお好み焼き。
生地も本当にフワッフワッで、最初2枚だけのつもりが、かなりお代わりしちゃいましたあせる

いなか焼き、イタリアン焼き、ネギ焼き、アメリカン焼き、牛スジ煮込み、サラダ、生春巻き、出汁巻き玉子、デザート盛合せ他、いっぱい食べました~ラブラブ

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さて、私の大好きな酒井玄蕃サマ。

戊辰からはちょと経過した明治初期の明治6年9月19~10月9日、労咳を患っていた玄蕃サマは、忙しい合間を縫って温海温泉絵文字へ、了明パパと、やはり体調の悪い実弟黒崎与八郎(馨)君を誘って療養の為、湯治に行ってます。その際請われて屏風に詩を揮毫してます。またその2年後の明治8年8月中旬にも行ってます。



もし、その旅館が解れば是非行きたいハートそして屏風も見れるなら見たいハート

どうにか旅館名が解らないかどうかと一緒に行っている実弟黒崎研堂の『庄内日誌』を見ても、旅館名迄は書いてない汗2せめて地元に伝わってるモノが無いかすがる思いであつみ観光協会様に問い合わせ。



すると、親切にも有識者や資料館に問い合わせてくれたり、旅館10件にも聞き取りして色々調べてくれたらしいのですが、結果として解らないそうでした。昭和26年に温海温泉は大火メラメラがあって、焼け残ったのは1軒のみで、昔ながらの資料や家財は残って無く、言い伝えなども残って無いそうです。



そして、庄内藩主酒井家が代々利用していた宿として『あつみホテル温海荘』が知られているそうです。


協会の方の御親切、本当にありがたい事ですラブラブ



とりあえず、判らなかった訳ですが、それでも玄蕃サマが湯治した湯はそのままでしょうから、是非温海温泉に泊まりに行きたいです。昔、庄内藩にハマる前に「たちばなや」さんに泊まりましたが、宿も対応も凄く良かったのを記憶しています。今回の対応で、改めて温海温泉の人の良さを実感しましたラブラブ



因みに、熱海温泉温泉にも湯治に行ってます。確か山川大蔵も熱海温泉に湯治に行ってたハズ。

今度の土用丑の日は平日なので、プレ土用丑の日という事で、近所のうなぎ屋さん「うなぎ伊志河」へ。
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久しぶりの鰻はふっくらしてて美味しかったです~(^O^☆♪
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今日、『黒崎研堂庄内日誌 第一巻』が届いて、中をパラパラ読み。
黒崎研堂は、元々酒井敬治といい、玄蕃サマの実弟で、戊辰戦争で一番大隊に属して戦い戦死した黒崎与助の遺言で養子となり、黒崎与八郎(馨)となった人物。


ついうっかり玄蕃サマや了敏クン(玄蕃サマ長男)が亡くなる箇所で涙ぐみそうにあせる

了敏クンは痀瘻病(くる病)だったようで、明治5年8月発病。庄内のくる病は蛋白の欠乏によっておこる病気で骨格異常などが出るよう。文中にも玄蕃サマの葬儀で『喪祭を勤めているが、痀瘻病でやせ細り』とある。当時の貧しさから栄養が行き届かないからなのでしょうが…。庄内にはくる病の子供が多かったようで、山形県が「くる病対策要項」をまとめる程だったようです。
 結局了敏クンも明治11年7月25日に10歳で亡くなるのですが、その時の与八郎君の記述には『お前は生まれてから幸うすく、二、三歳の時病にかかり、九歳で父を失う。折しも一家は生活に苦しみ、衣食、玩具も十分ではなかったのに、他の子供たちとちがって聞き分けもよく、下々の者にも謙遜で、まるで大人のよう。これも病気のせいだったのか。悲しいことだ。悲しい事だ。』と。


了敏クンつながりで、玄蕃サマが無くなった直後、与八郎クンと調良クンで本家の後継ぎの話をしている中で、了明パパが「仲兄(調良クン)の方で後を継いだら兄嫁二人の間に、ゴタゴタが絶えぬだろう」と心配し、「ああどうしてうちにはこうも頑固な女がそろったものか」と。与八郎クンは恐縮して「何故長兄は早死して父上にこんな大きな心配事をのこしたのか」と嘆いているのが笑える。そうか、やっぱり玉浦ちゃん、気が強かったのか(笑)



ちなみに、文中与八郎君が余目に向かっている文中に「廿六木村」と云う名前の村について記していて、
「この名を読める者が居ない。聞けばとどろき村という。「轟」の字を書けばよいのに、人に読めないように書くとは」…というツッコミを入れてるのにうけた(笑)



福島の中通り地方に住む知人から手紙が来たのですが、

風向きの問題なのか、浜通りより線量が高かったりするらしいです。今は中々窓も開けられないと云う話を聞くと身につまされます。



ヤフオクで、通常の古書価格の半額位で大山柏の戊辰役戦史本が出てて落札。
ついに、やっと四大戊辰戦史(何の?)の最後の一つが揃いました~☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

会津戊辰戦争
会津戊辰戦史
七年史
戊辰役戦史

後は、これを役にたてないとあせる

ちなみに、古書サイトで買った前から気になっていた「或る戰兵の庄内戊辰戦争」は、先入観もあって、庄内藩士の誰かなぁ~、何番隊かなぁ~、などと届くまで妄想膨らませてたら、届いてビックリ、薩摩藩の私領五番隊士の手記?で、ほとんどが鹿児島との往復で占められて、「庄内戊辰戦争」は関川の戦い位??ガッカリ~(-_-;)…大佗坊さんの事笑えないや…。

さて、ところ変われば文化も変わる訳で、今回は江戸期の庄内藩士の婚姻について。

庄内藩では、長男は士分から嫁取りしますが、長男以外は正式に「室」と称して娘を嫁取りする事は出来ず、御給人以外の家から娶って「妾」と称する決まりで、もし長男に子供が居なくて跡継ぎになってもダメ。

具体的には、

私のマイラバ~ハートの玄蕃サマパパの「酒井玄蕃了明」は二男なので、奥さんの「お市の方」は田川郡渡前村大字大川渡(現在の鶴岡市藤島)の農家成沢又左衛門の孫女で、同村の医師大野貞哉の養女となり、了明の妾となったのです。(なので、玄蕃サマのママは農民の出です)お兄ちゃんの右京さんに跡継ぎが居ない為に右京さんの養子として跡継ぎになっても、それは変わりません。

逆に言えば、玄蕃サマが名家の生まれだありながら下々の者であっても分け隔て無く優しく接する事が出来るのはその為かもしれないですねハート②


ちなみに、このお市の方、幼い時から聡明美貌、能書で和歌を善くし、嫁いでからは、良妻賢母の誉れ高く、立派に3人の息子を育て上げたのです。
しかし、慶応3年8月30日に僅か42歳にて没する。法号は常照院俊誉心光大師。