今日はお昼ご飯を「会津らーめん 和」で、青じそラーメン。本当はソースカツ丼も食べたかったのだけど、今日は無かった(T_T)
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その後、随分前から行きたいと思ってた茨城の古河市にある熊沢蕃山の墓。
山鹿素行程有名では無いので、不勉強な事に私も先日まで知らないでいましたあせる
江戸初期の儒学者で、15歳で家康に仕え、16歳で板倉重昌、京極高通の薦めで備前池田光政に仕え、一度15年に致仕し、27歳で再度池田に仕える。

23歳の時中江藤樹に師事、現実に応じる政治的実践を学問の目標として、学校制度の樹立、寺院神社の統合、租税、相続、家産等の制度、治山、治水、水利工事等国政全般に及び、藩財政の立て直しに寄与したが、隠居後、京都に住み公卿等と交流するも、蕃山を煙たがる幕府により京都を追放され、蕃山は吉野山に隠れ、その後明石に移り、明石藩主松平信之が大和郡山に移されると、これに従う。
しかし、69歳の時、突如幕府により古河に移され幽閉される。幕府に送った「大学或問」に拠るとも言われる。
そして、元禄4年8月17日73歳で古河にて死去。


で、何故いきなり熊沢蕃山かというと、庄内藩のマイハニーハート酒井玄蕃サマが、文久元年10月、19歳の時に「熊沢先生芸術大意」を写しているのですヨ!武術・武芸の心の工夫を記した奥義書らしく、「みだりに人に示すべからず」な剣の極意書として流伝したものと思われるが…。

墓は古河市の鮭延寺。墓石は当時のものでは無く、後年建て替えられたものらしい。奥さんのイチさんの墓と並んで建てられていて、墓の脇には説明板、向かいには新しい碑が建立されてます。大事にされてます。
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熊沢蕃山について更に調べたくて古河市立図書館へ。古河市で発行した本などもあったものの、本当にもあったのですが、熊沢蕃山が無くなった時の藩主は松平信之で、以降幕末迄何度か藩主が変わった為に史料もちりぢりになて残ってるのが少ないらしい。
著書にも、秘伝書だからなのか芸術大意は載って無い。どうなんだろう??