先日予告した会津藩士高田藩謹慎の話。
戊辰戦争で降伏した会津藩は、そのあと、明治2年初頭に高田藩榊原式部太輔の元にお預けとなり、総員1746名。これは、城外で転戦した者で、籠城組は東京で謹慎となったのである。
元々は信州真田家で受け入れるはずであったが、猛烈な反対運動により高田藩に変更になったものである。
因みに、荒川勝茂が塩川の謹慎所を出立したのは1月9日。日記には天朝より壱両を貰った事が記され、毎日雪が降り寒いと記している。
12日を要した護送の行軍は、
先頭は高田藩纏一、同藩応接掛二、鉄砲組十二、二列縦隊、会津藩応接掛二、会津藩兵多数二列縦隊、越前藩の纏一、同藩応接掛二、鉄砲組十四、二列、会津藩応接掛二、同藩兵多数二列縦隊の隊形であったという。総員1746名(1743名とも)は3回~6回に分けて出発し、高田藩領内の各寺院に謹慎した。
荒川勝茂は、まず、21日浄光寺(浄興寺)に入り、2月7日に高安寺に移る。因みに、その間の食事は、皿香モノ、数の子、汁豆腐、フシ。夜は、平カマボコ、菜、結昆布、皿コンニャク、干物、汁大根、皿生イカ煮付け、カマボコ他に煮しめ、御酒。等。高田藩良い待遇です。東京謹慎者より待遇が良かったとも。
高安寺には、萱野初之助を始めとする進撃隊士達が下宿し、一周忌の8月20日には進撃隊討死者の弔祭を行ったりもしている。
また、水野軍吾の誘いでちょいちょい長楽寺で茶道をしたり、水野氏下宿の天林寺にお茶に招かれたり、本願寺の野村彦五郎や今泉伝之助を誘って酒を飲み交わしたり、長命寺で歌会したり、願重寺や常光寺でもお茶会をしたりしている。
←長楽寺
他にも本誓寺の名前も見える。
そして、斗南藩が成立し、高田謹慎が解け、荒川等は明治3年4月21日に高田を出立し、会津に向かい、その後斗南に出発しています。
会津藩士達が斗南に去った時、高田藩はどれだけ胸を撫で下ろした事か。1746名を養わなければいけない。戊辰戦争で政府に差し出したお金は返って来ないし、降伏者受け入れで出費は嵩む。それは苦労が偲ばれます(~_~;)
【参考文献】
荒川勝茂日記
会津斗南藩士三井兄弟/中村正勝
十倉綱紀伝
でまずは、林西寺へ。


へ。…とはいっても、三重櫓が復元されている程度なんですが。

をだして頂いて、店の歴史等を案内頂きました。 
に。
が動き出す時間迄待合室で仮眠。長岡駅の待合室が綺麗で良かったです

に。

で。
で。和風なオシャレなバーでした(^-^)
で一路新潟へ。
を買い込んで、乗車。杏露酒を頂いたり、つまみに美味しい佃煮を頂いたりして、ひたすら色々おしゃべり。
とコーヒー牛乳発見
を食べました






の地図がかなり役立ちました。まさか高校の敷地内とは…。 

と、玉こんにゃくを食べる。
に乗れず、後発の新幹線自由席に。最後にこんな落ちが待っているとは…。
諦めなくて良かった~


とトキメキ


