昼過ぎ、急に思い立って昼食ご飯後に家を出て、杉並にある「大円寺」へ史跡巡り。


「大円寺」は曹洞宗の寺院で、赤坂辺りに徳川家康の開基により建立され、諦厳桂察和尚(武田信玄の弟)が開山といわれる。寛永18(1641)年正月の火災で伊皿子に移転。
延宝元(1673)年、薩摩藩島津光久の嫡子綱久が江戸で死去し、この大円寺で法要を行って以来、薩摩藩の江戸の菩提寺となった。(他に、飯野藩保科家の菩提寺でもあった)明治41年現在の地に移転。

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そして、墓地には、薩摩藩の支藩「佐渡原藩」の戊辰戦争で戦死した藩士の墓お墓「佐渡原藩主島津氏臣戦死之墓」の碑お墓。そして、よくある薩摩藩特有の「戊辰薩藩戦死者墓」お墓薩摩藩邸焼討事件の際の戦死者墓お墓が並んでいます。

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ぶっちゃけ言ってしまえば、薩摩藩邸焼討事件は武力による討幕を望んだ薩摩藩側の罠に幕府がひっかかって、庄内藩・上山藩・鯖江藩・岩槻藩等に薩摩藩邸攻撃刀を命じ、この事件が京都に伝わり、鳥羽伏見の戦いの呼び水になったともいえる事件。

ちなみに、薩摩藩邸焼討事件では、薩摩藩側の死者は六十余名、捕縛者百六十余名。対して庄内藩の死者2名、上山藩は9名、その9名の中に上山藩中老金子与三郎もいた。

月虹徒然日記 ※薩摩藩邸焼討事件戦死者墓


ちなみに、薩摩藩邸焼討事件の戦死者墓は、鎌倉の「妙法寺」にもあります。


本当は、この後谷中霊園お墓に行って玄蕃サマお墓に正月の御挨拶をしようと思ったのですが、始動が遅かった為、日暮れ夕暮れで断念泣く



※『薩摩藩邸焼討事件』は詳細は『七星旗 白雲の間を動く』のAkiさんの頁を参照下さい。


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「山田顕義物語」見ました。


う~ん。たった1時間半という短い時間なのもあるけど、物足りない~涙山田涼介クンはカッコ良かったけど~冷や汗消化不良??もっといっぱい描いて欲しかった~冷や汗四境戦争とか戊辰戦争とか西南戦争とかさぁ~冷や汗

あけましておめでとうございます正月


旧年中は大変お世話になりました。
昨年は三月の大震災以降大変な事ばかりでしたが、今年は皆様にとって昨年の分も取り戻す最高の年になりますようにお祈りしておりますハート



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因みに、↑の正月飾りは先月の草月部で私が作ったモノです。自作の正月飾りお飾りは良いですね。


ついに12/31です。大晦日12/31です。
震災や原発に振り回されたあっという間の1年でした。
来年は良いになりますようにお願い

年越し蕎麦年越しそば ピグ 黒用は、ロビンソンで売ってた庄内の「麦切り」です[みんな:01]
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そして、1/2にはドラマ「知られざる幕末の志士 山田顕義物語」が放送ですヨびっくり

市ィが萩で過ごした少年時代を描いた物語で、主演は「Hey!Say!JUMP」の山田涼介音符http://www.mbs.jp/yamadaakiyoshi/ 楽しみ~でもたった1時間半って…汗

会社が終わってから、練馬に住む大学時代の友人の家でお泊りクリスマス女子会tree

夕食を大戸屋で取って、ドンキに寄って部屋飲みのスパークリングワインとおつまみGETpeace
更に、初Wiiスポーツ体験びっくり面白~いハート

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バド仲間のおりちゃんと吉祥寺で初!ヘッドスパ。しかも通常は8千円以上するのが、2800円。お買い得。

場所は「テラ吉祥寺」そらもう。ちょ~気持ち良かった~泣
終わったら、髪がサラッサラですよ顔天使の輪ですよ顔

終わった後、スタッフさんオススメの向かいの「焼き小籠包」の店であっつ熱の小籠包をハフハフ言いながら頬張る。モチモチして美味しい~にゃ


大宮で先に終わったおりちゃんと待ち合わせし春日部に戻り「右京」へ。

ここで他のバドバドミントン仲間の女子も合流して計7名でドンブリ女子会(笑)ここは海鮮が新鮮で安くてモリモリで美味しいのですよ~びっくり私は磯盛丼。これで1300円哉。


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今日は竹さんが上京しているという事で、大佗坊さん・どどんぱさん・ちにたさん・河内さん他で新宿でオフ会。色々な史跡について情報交換したり楽しい時間を過ごしました。


竹さんが昼過ぎに帰郷された為、その後折角なので史跡巡りへ。


四谷にある長善寺墓地に、会津藩士小池繁治郎の祖「小池政成墓」お墓へ。

KOKOさんの御先祖にあたる方、かなり痛みがある墓石お墓でしたが、今でも供養されている方がいるようで良かったデス。
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大崎駅に行くと、ちょうどSuicaのキャンペーンをやっていて、Suicaペンギンが!泣可愛いハート


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その後、品川大崎駅から少し歩いた所にある妙光寺にある会津藩士「野口九郎大夫墓」お墓へ。墓碑銘は「野口先祖累代之霊」…が、気になったのは墓の前に大きく掘られた穴(とかぶせてあるブルーシート)まさか、改葬する予定か?!ただ単に地震でずれたのを直すとか程度なら良いけど、もし改葬なら大ショック涙


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ついに最終日です泣く

朝、ホテルをチェックアウトして小倉駅ホームの「かしわうどんほかほかで朝食。。鶏肉のだしを使い、 鶏肉のそぼろをうどんの上に散らしたうどんです。若干うどんは茹で過ぎ感はあるものの、おつゆとかしわが美味しいd.heart*
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行橋で平成筑豊鉄道に乗り換えて「豊津駅」下車。そこからタクシータクシーで、今回のメインイベントその2!『郡長正墓』お墓ハート場所は甲塚墓地。

墓地に行くと「斗南藩 郡長正墓」と立派な案内が建っていてすぐに解ります。


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郡長正は、会津藩士家老萱野権兵衛の二男で、長男は萱野姓を継ぎ、二男である長正は郡姓を、三男は寛四郎。明治3年に他の会津藩士子弟7名と豊津藩育徳館へ留学。翌年の明治4年5月1日に自刃しているが、諸説あるものの、食事の貧しさを母親に訴えた手紙を見られて恥じて自刃というのは創作である可能性が高い。(郵便制度ポスト。が全国で始まったのは明治5年)

更に、その近くにある秋月藩士の墓お墓へ。秋月の乱での戦死者17名の墓です。明治9年10/27、秋月藩士二百余名は肥後の神風連に呼応する為挙兵。豊津藩士に同調を求め、萩の前原一誠と合流する為29日に豊津に入るも、期待に反し豊津藩士が新政府軍に協力した為、秋月藩士は劣勢となり戦死者17名を出して撤退した戦い。
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そこから、旧豊津藩校育徳館で現在の『福岡県立育徳館高校』学校へ。

この高校の校門脇には、「思永館」という木造の建物が。明治初期の洋館建築で福岡県文化財。かつての講堂。御厚意で講堂内を見せて頂きました。そして、そのすぐ脇に、会津若松市より贈られた郡長正の先祖の墓の土台石と会津鶴ヶ城本丸の茶室の庭石が『郡長正記念庭園』としてひっそりあります。

また、郡長正記念庭園の裏側には「黒門」が。黒門は明治3年に藩校育徳館の正門として建立されたもので、きっと郡長正達もこの門を潜ったに違いないでしょう音符
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最後の締めに「福聚寺」へ。

福聚寺は小倉藩小笠原家の菩提寺お墓。ここも珍しい黄檗宗。めったに観光客が居ないのか、お寺の方が小笠原家墓地の鍵カギを託してくれてビックリゆっくり見れました。


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最後に昼食ごはん兼土産購入の為、下関の唐戸市場のカモンワーフへ。

当初予定していた店が残念ながらお休みという事で、カモンワーフ内の「奇兵隊」という店へ。私はふぐ刺し丼。
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今日は今回の旅行の一大イベント。


の前に、まずは『東行庵』へ。小月駅からタクシータクシーで東行庵へ。朝ごはんごはんを小月で食べようかと思っていたら、時間も早いせいか食べるところが無かった・・・。コンビニも無かった。仕方なくそのまま東行庵に行くと目の前の売店でうどんカレーうどんが食べられたので良かったミッフィ


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『東行庵』は幕末に山県狂介(有朋)が草庵を建て『無鄰庵』と名付けた(後、京都の岡崎に建てた別荘にも無鄰庵と名付けている)、高杉晋作死後、その遺言により奇兵隊の本拠地に近いこの地に埋葬され、晋作の愛人おうのは出家し、山県が明治2年におうのに無鄰庵を譲った。おうのが明治42年に亡くなるまで晋作の菩提を弔って過ごした場所。現在の庵は明治17年伊藤博文・山縣有朋・井上馨(かおる)等全国諸名士の寄付により建立されたもの。3代目庵主の谷玉仙尼によって清水山を造成し、各地から奇兵隊士の墓を集め供養した、これが昭和46年の晋作105年祭の記念事業であり、現在、東行庵墓地には203基の墓お墓がある。


東行庵の敷地に入ると、まず奇兵隊軍監『福田侠平碑』があり、次に『高杉晋作碑』。そして、『高杉晋作墓お墓。『福田侠平碑』『梅處尼(おうの)墓』お墓その先には三段に並んで203基の奇兵隊士の墓お墓が並んでます。

幹部だけではなく、反逆者として処刑された赤根武人や、脱走騒動で処刑された隊士、小者に至るまで多くの墓石お墓が並びます。朝日山で戦死した時山直八などもあります上げ上げ


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その後、東行記念館(資料館)へ。展示品の一部が失われたとはいえ、色々貴重な資料があって面白かったデス!踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。

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東行庵からタクシータクシーで再度小月駅に戻り、長府駅東横線に行く。

これからが一大イベント泣『会津間諜 神戸岩蔵墓』びっくり

しか~し、具体的な場所がはっきり解らず、兎に角タクシーの運転手さんに『道玄堂山の墓の入口』というと、全然違う場所に連れて行かれたので、だいたいこの辺りっていう場所を指定して下車。そこからはiPhoneIS03の地図を頼りに歩いて探すと、はるか上の方に『舊会津藩士 神戸岩蔵綱衛 墓地入口』の看板発見びっくり
しかし、そこからが大変だった冷や汗最初はまだましな山道だったのが、途中から荒れだし、頂上らしき処にある程度まとまった墓石群を過ぎると竹藪。倒れた竹が横たわり『実は今まで歩いてきた間に通り過ぎたのでは…』と戻ろうとするも、超アバウトな地図を見ると『もしかして最後下ってる?』と勇気を出して更に前進。
諦めかけた頃に発見びっくりまーく
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…が、墓石の墓碑銘は摩耗してしまって殆ど読み取れず。特に墓石の傍に案内板などがある訳ではないので、自信が持てないものの、ネットや資料で紹介されるのと同じなので、これだろうと。

…しかし、この後一大論争に。
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上左写真が登り始め。さらに前進右上写真の通り道らしきものがあるので、それに従って進む。

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左上写真が頂上付近。墓石が乱立していて行き止まりに見えるが、更にその奥、道なき道を下って、右上写真のような竹藪を突き進むとちょっと開けた場所に出て、そこに神戸岩蔵の墓があります。


山を降りて、タクシーを拾い、『功山寺』へ。ここは長府毛利家の菩提寺であり、禁門の変で都落ちした七卿の内5名が滞在、また高杉晋作が挙兵(回天義挙)した場所。境内に入ると『高杉晋作回天義挙之所碑』があり、更に墓地には『長府藩士 三吉慎蔵墓』があり、境内に『七卿遺跡碑』『高杉晋作回天義挙像』がある。


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建物の内部には『七卿潜伏の間』があり、三条実美達がここで過ごしたのか~としみじみしみじみ


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お昼ごはんごはんは少し歩いたトコにある『祥』へ。
http://r.tabelog.com/yamaguchi/A3502/A350201/35001124/

メニューは一種類のみなので、少し待って席に座ると既に御膳ごはんが置いてありました。1,050円で湯豆腐や沢山の小鉢や海老フライ、茶わん蒸し、コーヒーカップ等々が付いて結構量があります。

ちなみに、この祥は、明治維新などで活躍した桂弥一の旧宅で、桂弥一は京都の尊攘堂(勤王の志士を顕彰しようとした松陰や入江九一の意思を継いだ品川弥二郎が建立したモノ)を建立した品川弥二郎の「長府にも尊攘堂を」という意思を継ぎ、尊王精神の高揚を図るために創設した長門尊攘堂(現下関市立長府博物館)等を建てた。


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その後、すぐ近くの『笑山寺』へ。

ここも長府毛利家の菩提寺。功山寺に比べて観光客も居ないし、毛利家の墓も自由。


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街並みが景観保護しているようで、昔の街並みを彷彿とさせる素敵な街並みでしたd.heart*


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笑山寺を出た時点でまだ13時だったので、長府市立図書館本に行って先ほどの『神戸岩蔵墓』の謎を調べに。何が謎かというと、まず一つ目は『戒名』

まったく摩耗して読めなかったので、資料に載っているのではないか?と。
もう一つは『何故あれが神戸岩蔵の墓お墓と解ったのか?』という事。発見当時は摩耗せずに戒名が読めたとして、じゃああの墓お墓は誰が建立したものなのか??

一番古い神戸岩蔵の記述は、明治16年発行の「毛利家乗」の「(前略)会津ノ士神戸綱衛ト称スル者来リ留ル数月病死ス」、次いで昭和3年の「桂弥一懐旧談大要」の中で、伝わっている密偵としての神戸岩蔵の詳細と神戸岩蔵の話の確認を会津藩士石澤源四郎にした話が掲載され、更に桂弥一が『殺された場所である「道玄堂山」の土を少し取って笑山寺の無縁墓の下に納め、位牌も調達し位牌堂に安置し、弔った』旨は記載があるが、この時点で道玄堂山に墓石は無さそうだし、どこにも道玄堂山に墓お墓を造ったとは書いてない。その後道玄堂山に登り功山寺の僧を伴い、香華を手向けたとは書いているがやはり墓お墓については触れてない。

第一、罪人として処刑した他藩の密偵に対し、長州藩で墓お墓を建てたとも思えない。大きなしっくりしない謎が残った…。



その後、バスバスに乗って下関に戻り、光明寺へ。

ここは、文久3年(1863)の下関攘夷戦争の際、久坂玄瑞が後に奇兵隊の母体となったのちに「光明寺党」と呼ばれる浪士隊約50~60人がこの寺に駐屯、5月11日未明、アメリカ商船ベンブローグ号船に対して庚申、癸亥両艦で海峡に乗り出し、又亀山八幡宮の砲台から第一弾を打ち出した。見落としましたが、柱には刀傷もあったようです。


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移動途中に歩いていると、道に↓の銅像が。可愛いハート。おちょこ熱燗持ってる。


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そこから更に、東光寺へ。

ここは功山寺で決起した高杉等奇兵隊士が、新地会所を襲撃後、待機の為了円寺とこの東光寺に分かれて陣を張っていた場所。


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これで山口県完了。明日は最終日。

って事で、小倉に戻り「舞」http://www.hitotsubaki.com/mai/index.html )という店で夕食beer

烏賊イカコース。烏賊イカの活造りやらマツタケ松茸と鱧の土瓶蒸しとかどれも美味しかったですハート


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朝早くに起床し、朝食も取らず小倉駅へ。

新幹線の中で、駅弁で朝食。地鶏弁当です音符


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本日は念願のです泣イヤ、この旅行自体が既に念願だった訳ですが[みんな:01]
ローカル線東横線では、ほぼ通学の高校生で満員…どころか、座れない学生達は電車の通路に座り込んでおしゃべり…。凄い異様な光景に唖然。

新幹線0に乗り、厚狭でローカル線東横線で東萩駅へ。

東萩駅は朝早い所為か寂しい感じ、駅前にレンタサイクル自転車らしきのがあったので、次回があれば利用しよう…。

まず、東光寺へ。珍しい黄檗宗の寺で、かなりやはり藩主の菩提寺の一つだけあって立派な寺。まずは歴代藩主の墓お墓をお参り。ここには3・5・7・9・11代藩主とその室・一族約40基の墓があります。更に、殉難遷葬碑、国司信濃・福原越後・益田右衛門の三家老や周布政之助等の殉難藩士の墓『元治甲子殉難烈士墓』お墓へ。


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山を下りながら、吉田松陰・高杉晋作等の墓へ。ここには久坂玄瑞やら吉田稔麿等松下村塾関係の墓お墓があります。更に下って高杉晋作草庵跡地吉田松陰誕生の地を周り…。玉木文之進旧宅伊藤博文(俊輔)旧宅吉田稔麿誕生の地を廻る。兎に角、奥平謙輔の墓お墓がある寺に午前中に伺う約束だったので、かなり急ぎ足逃げるで廻る。

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俊輔の屋敷↓、左が元々の屋敷。伊藤家は足軽だったのでこんな感じ??右は明治になってから品川の大井に建立された屋敷を移築したものなので立派です。
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山の締めがドンの「松陰神社神社。流石は松陰神社。団体の観光客がゾロゾロ[みんな:02]最悪~!おかげで全くゆっくりじっくり見れず、松陰神社を後にして、ついに奥平さんですよ泣


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奥平謙輔は、会津の恩人とも言うべき重要人物の一人。まだ戊辰戦争とか始まる前、秋月悌次郎と知り合いだったツテで、謹慎中にもかかわらず、山川健次郎と小川亮の2少年が、雪道を秋月と共に奥平が宿陣している越後へ向かい、秋月は奥平に2少年を託し、奥平も脱走兵を匿うも同然であるのに、敵である2少年を預かり、それが後の東大総長山川健次郎と陸軍工兵大佐小川亮を生んだと言っても過言ではないと思います。

しかし、その後萩の乱に参加し、処刑されてしまいます。


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奥平謙輔の墓お墓は大照院にあります。この大照院も歴代藩主の墓がある立派な寺です。奥平謙輔の墓は広い一般墓地の中にあるので闇雲に探すと大変ですが、ヒントがあれば案外解りやすい場所です。

庫裡の右、駐車場もさらに抜けるとその先に上に登る道があり、更に進むと二股になるので右手の道へ進むと一般墓地に出ます。無縁墓地の左脇の道を登っていくと、ブロック囲いされた中腹の一角が奥平家の墓地となっていて、その敷地の左奥『弘毅齋源居正墓』。奥平家枝葉の合葬墓になっているようで、裏面既に読み取れないですが、上段右から6番目に弘明治9年12月3日と記載があるそうです。

その後、毛利家歴代藩主墓へも。ここには初代、2,4.6.8.10.12代の墓と夫人、一族、そして初代に殉死した7藩士の墓があります。

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その後、「前原騒動の慰霊碑」へ。(詳しい場所はここ兵部大輔だった前原一誠は、脱退騒動の処分で桂等と対立し帰郷、その後奥平謙輔や松下村塾関係者などと共に決起、この辺りは萩の乱で激戦地となった場所で、この地で戦死した兵の慰霊の為、地元に人々が建てたのだという。しかし、実際に行っても『前原騒動の慰霊碑』とは解りません。摩耗している碑に読めないけど裏とか側面とかに何か書いてあったのかしら??とか。


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その後、周布政之助旧宅跡奥平家長屋門入江九一・野村靖(和作)兄弟の誕生の地前原一誠旧宅地


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弘法寺の前原一誠墓お墓へ。前原一誠も会津と縁が深い人物なので、ここも来れて本当に良かったほわんここには佐世一清の墓もあります。思案橋事件の首謀者となった永岡久茂らと共謀し、共に反乱を起こそうとするも、永岡久茂は決起前に鎮圧され、前原も萩の乱で敗れ処刑された人物デス。

写真右の中央が前原一誠の墓、左が弟(三男)で共に萩の乱に参加し処刑された佐世一清の墓。父は佐世彦七で八組の士で、八組は毛利家の旗本ともいうべき直臣で四十七石であった。改名前の名を「佐世八十郎」。前原一誠は安政4年24歳の時に松陰の門下生となる。『勇あり、智あり、誠実人に過ぐ』というのは松陰が一誠に与えた評。


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ここから『天樹院』へ。ここには毛利輝元の墓お墓があります。正確には毛利輝元の墓だけがあります。毛利輝元は毛利元就の孫。


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天樹院からは歩いて歩く東萩駅へ向かう。途中『旧毛利家別邸表門』『高杉晋作誕生地』へ。高杉晋作誕生地の中はちょっとした記念館みたいになっていて、手紙が写真などが展示されています。更に『木戸孝允(桂小五郎)誕生地』、ここは当時の建物がそのまま残っている場所で、桂の落書きなんかもあって当時の雰囲気が伝わります。こういうのを見ると、戊辰で焼けず、藩政の中心が山口に行った為に忘れられたのが幸いして、こうして当時の建物が残っているって羨ましいなぁと。



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更に歩いて『野山獄』『岩倉獄』へ。ここには吉田松陰や高杉晋作が繋がれた獄舎。野山獄は士分の獄舎、岩倉獄は庶民の獄舎として分けられていた。写真左が野山獄、写真右が岩倉獄。松陰が繋がれたのは野山獄。

松陰が国外脱出を図って伝馬町の獄に1年繋がれた後萩に送り返されて来た際に野山獄に投獄され、安政3年12月に実家預かりになるまで。そして、安政5年12/26には間部要撃策が元で再投獄。

ちなみに、この2度目の投獄。間部詮勝要撃を計画し、藩首脳陣に間部要撃策を打ち明けた上、武器・大砲の用立てを依頼。あまりの暴挙に藩政府は驚いた。また江戸では安政の大獄の真っ最中。そんな事が知れれば松陰が、ひいては長州藩が断罪されるのは目に見えている為自重を促し、更に江戸に居る久坂玄瑞や高杉晋作・中谷正亮等から説得させるも、逆に松陰は憤慨。火に油を注ぐ事になり、しかたなく藩首脳陣の周布は門下生と引き離す為、松陰を野山獄に入獄を命じたのだが、結局江戸より松陰更迭の命があり、そのまま江戸に更迭され処刑されたのである。そうやってみると、ある種松陰って純粋だなぁ(苦笑)


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ここを最後に萩を後にして小倉に戻る。


夕食は『鳥町食道街』にある『うちょうてん』という鶏料理専門店へ。本場の水炊き鍋目当てハート水炊きのコースを注文、鶏の刺身、メッチャうま!泣感動~泣その後も鶏サラダ、焼き鳥、水炊き、デザートのプリン。どれもめっさウマですヨ!泣
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