山野楽器が毎年開催している「YAMANO BIG BAND CONTEST」が先週の土日に行われていた。
 このコンテストは大学ビッグバンドを対象にしたコンテストで、今年で43回目。
 僕自身も実は大学時代ビッグバンドに属しサックスを演奏、大学4年間音楽に熱中して過ごした。
 今年の優勝バンドは国立大学、僕の出身大学は6位という結果。
 僕の現役時代は4年間で優勝2回、2位が2回というかなり優秀な成績(自慢げ)。
 ここ最近は僕の出身バンドの成績は低迷しているのが現状。少し悔しい。
 それが理由なわけでもないがこうした音楽コンテストについて考えてみた。

 そもそも音楽に順位をつけることはすごく難しい。
 音楽には上手い、下手という事以上に「いい」「わるい」がある。これはどうしたって数値化することは不可能で、選ぶほうの感性によるところも大きい。
 僕が出ていた時にも議論があったが、「音大が普通大学に混じって出るのはずるいじゃないか!」という意見がある。国立音大のビッグバンドは今年で6連覇だそうなので、これは取りも直さず「上手いバンド」が評価基準のかなりの部分を占めていることを示していると感じる。
 この点については審査員も考慮に入れてほしいなあ、とも思うのだが、そうは言ってもその上手さを超える個性や選曲力がほかの大学バンドになかったのだろう。

 僕は仕事を始めてから様々な音楽コンテストに関わってきた。最初に仕事で関わったのは大学生対象のバンドコンテスト、その後もっとも長く関わったのは「ティーンズ・ミュージック・フェスティバル」という10代の音楽コンテストだった。それ以外にも「ミュージック・クエスト」というコンテストの審査員をやらせていただいたこともあった。
 こうしたコンテストに共通していた議論は「上手いバンドを評価するのか?」「面白いバンドを評価するのか?」というものだ。
 ティーンズや大学生が対象となるとさらにその議論は激化する。審査員として関わった時も、「下手だけど盛り上げてくれた面白いバンド」に賞をあげるのか、「面白みは今ひとつだけど上手いバンド」にあげるのかで審査員が割れたシーンもよく見られた。
 
 しかしながら、20年以上様々な音楽コンテストで数多くのアーティストに出会い、その後彼らがどうなったかを見て行くと明らかなことがある。
 これまでコンテストでaiko、椎名林檎、RADWIMPSをはじめとする数多くのその後デビューするアーティストに出会った。
 そして何よりも面白いのはaikoや椎名林檎は1位ではなく、2位とか3位であったという事。
 つまり1位になったアーティストはあまりその後成功していないことが多いという事。
 誰からも評価されるより、好きな人と嫌いな人が割れる・・・そういう音楽性のアーティストのほうが結局は音楽としての面白み、深みがあり、数多くのファンを獲得していくのだ。
 
 音楽というのはまずやっている自分が楽しい、そしてそれを聞いている人が楽しい、ということが全て。
 八方美人になるよりはわかる人にわかればいい、という姿勢を貫くアーティストこそが求められているのではないだろうか?
 もちろん、そんなことを言われてもコンテストに出場するほうにしてみればちょっとでも上の順位を狙いたわけだが、それはそれとして音楽を楽しみ切る姿勢も重要なのだよ・・・と、後輩たちに伝えてあげたい今日この頃ではあった。
 

setzy(節丸 雅矛)のブログ-遠くにメダリストが見えました。
 本日、銀座で行われたロンドン五輪メダリストたちのパレードがあった。一部報道によると50万人がパレードをみるために集まったそうだ。
 僕も会社が近かったので足を運んでみた。
 パレードのスタートは銀座1丁目から中央通りを8丁目まで。約20分かけて行われたが、人はまず1丁目方面から交差点を中心に人がいっぱいになると2丁目へ、そして3丁目へと順々に流れていっていた。
 僕は6丁目で見物することができた。時間にして目の前の通過するのは約3分くらいか。バスは5台。先頭のオープンカーは前に並ぶ人に隠れ見ることができなかった。
 
 しかしながらよくここまで人が集まるものだ。
 日本人は最近よく集まるようになった。
 先月16日に代々木公園でおこなわれた「さようなら原発10万人集会」には17万人が集まったそうだ。この集会は住んでいる場所から近かったこともあり行ってみたのだが、初めての土地でどこで食事を食べればいいのか迷っている運動家ランチ難民(笑)も数多く見られ、その姿はふつうのおじさん、おばさん。
 ごく普通の人がこうした集会に集っているのだということを実感。

 津田大介さんが最近の著書「動員の革命」の中で近年のtwitter、facebookなどソーシャルメディアの発達が「動員」に寄与し、ジャスミン革命が起こったことに触れ、今後は「動員」が時代を動かすカギになると書いていたが、まさにその通りであることを実感している。
 官邸前行われているデモもそうだが、一般市民が何かを表明して訴えていくには「集まる」しかないということが理解されてきたのだと思うし、「集会の自由」が許されている日本の素晴らしさを実感するところでもある。
 その一方でオウムサリン事件後の破壊活動防止法の議論も僕にとっては気になるところ。何かあればやはり当局に取り締まられてしまうのかもしれない。
 でもソーシャルメディアやネットの発達は明らかに「動員」を促進しているし、今後はその状況の変化はさらにスピードアップしていくだろう。
 
 ここ何年かは夏フェスと呼ばれる音楽の野外フェスも大変な動員を記録している。
 この現象を「やはり生が一番!」と考える人が増え、メディアを通しての報道、伝達を信用しないとまででは無いにしろ、満足しない人はどんどん増えているのではないかと思う。
 
 インターネットの発達で流れ込んでくる情報量が増えすぎているからこそ、自分で見聞きし感じることの大切さが改めて見直されていると感じるし、すごくそれは人類の未来にとってはいいことなのではないかと思っている。
 ロンドンオリンピックが終わり、月曜日にはメダリストたちの銀座パレードを控え、連日アスリートたちがマスコミを賑わしている。
 メダリストたちはまさにアスリート人生の絶頂期にいるわけだが、ここのところ気になる二人のアスリートがいる。それは松井秀喜とイチローだ。
 何かと対照的なこの二人、取材嫌いのイチローと愛想のいい松井。WBCに出場して世界一になったイチロー、ワールドシリーズでMVPという偉業を達成した松井。
 さすがのこの二人もアスリート人生の終盤に入り衰えを隠せなくなった。
 ヤンキースに電撃移籍したイチローと球団が決まらず浪人状態の松井。この二人に最近共通点を感じる。それは野球に取り組む真摯な姿勢だ。
 松井もイチローもオフにテレビのバラエティ番組に出たりする事も無く、自分たちのプレイについてさえも説明したり、言い訳する事が無い。
 ただひたすらに野球に取り組む。ただひたすらに自分たちがプレイできるベストな場所を求めていく。
 これまでも僕はこのふたりの活躍を日本人として誇りに思い、元気づけられ、ときにはその成功を羨んできた。だから二人が衰えていく姿をどこかで見たく無いという気持ちもある。
 ファンのひとりとして、できれば次の人生を見据えサッと引退してしまってもいいんじゃないのかとも思う。なぜ、そこまで自分を追い込むのだろうか。

 その答えのようなものが見えた気がしたのが、ロンドンオリンピック、ボクシングミドル級で金メダルを穫った村田諒太選手が番組のゲストに出演したときのだった。
 村田選手の家の冷蔵庫の横にはオリンピックの前から「金メダルありがとう」と書いた紙が貼ってあり、それを写真に撮り携帯の待ち受け画面にしていたのだそうだ。
 また、彼は金メダルを獲得したときに感想を聞かれ、「夢ではなく目標でしたから」と答えていた。また、「金メダルに負けない人生を送ることが自分の役目」という発言もしている。
 番組の中で「自分て弱いな、と落ち込んだことはありますか?」という質問に「ありません」とキッパリ答え、「人と比較したりしませんから」と話した。
 そうなのか。一流のアスリート、成功する人物というのは何かを目指して生きているのではなく、もうすでにそういう存在としてそこに「居る」、そこに「在る」のだな。
 
 イチローも松井も何かを目指して野球をしてきたのではなくて、もうすでに野球をする存在としてそこに「居た」のだ。
 だから他人や以前の自分と比較して衰えたことを悲観すること無く、ただひたすらに野球と取り組むのか。
 少し前にイチローの小学生のときの作文がネット上で話題になった。小学生にしてプロになる自分をイメージしていたイチローに驚くと同時に、もうひとつ印象に残ったフレーズがあった。それは「そんなに練習をやっているのだから、必ずプロ野球の選手になれると思います」というものだ。
 もう小学生のときからイチローはプロ野球選手になる存在としてそこに「居た」。
 そこに彼らの人生を読み解く鍵と、僕らにとっても役に立つヒントがあるような気がしている。