今の大学生はとても真面目だという話をよく聞く。
 確かに僕の大学生時代(25年以上前)は大学の授業はさぼりがちで出席を取らない授業には出ないのが当たり前だった記憶がある。
 ところが知り合いの大学の先生に話を聞くと、今の学生は授業を欠席することは無く、まじめに出ている人が多いらしい。
 その理由はいろいろ考えられるが、景気がいいときは学生は授業に出ずに遊び、不況のときはまじめな学生が増えるのだと言う人もいる。将来への不安がそうさせるのだろうか。
 でもこの話には必ずと言っていいほど今どきの学生についての評価が伴う。それは「今どきの学生は”ひとつだけの正解”を求める子が多くて残念だ。」という評価だ。
 つまり、「世の中の価値は様々で何が正解ということは難しい。だから世界の価値観が多様であること、そして多様性を受け入れることが世界を理解する上で重要なこと、なのに今どきの若い大学生は安易に正解を求める子が多く、それは日本という国にとっては嘆かわしい」、なんてことがよく言われて、それを聞いている方も「なるほど、ウチの会社でもそういう若い奴が多くてさ・・・」なんて会話が進んで行く。
 本当にそうであろうか?

 私たちは自分の行動や価値観が正しく、異なる価値観を持っている人を間違っていると考え、挙げ句の果てにその人のことを正そうとしてしまうことが多々ある。
「選択理論心理学」ではこの行動を「外的コントロール」や「間違った信条」という言葉で、強く戒めている。(元ネタ勝間和代さんのメルマガ)
 私たちは他人をコントロールするためにこの「外的コントロール」を行うが、この「外的コントロール」をすればするほど、相手の信頼関係を損ない、結果として、自分も満足する生き方ができなくなる。
 しかし私たちは「他人を変えることができる」と思っているし、「私たちは何が正しくて何が間違っているかを知っている」し、さらに「間違った人を正すことは自分の使命だ」という”危険な信条”があることを選択心理学は指摘しているという話。

 確かに思い当たるところがある。
 特に若い世代の主張はなかなか世の中に届かない。僕と同じ40代にはマスコミや紙媒体などで発言の場を持っている人はたくさんいるし、そうした人たちが「今どきの若者は安易に正解を求めすぎる」と発言すれば、「そうだ、そうだ」という声も集まることだろう。
 僕自身を振り返っても、僕が大学生の頃、やはり「今どきの大学生は・・・」と言われた。
 大体の論調は「学生の本分である勉強をせずにサークル活動やコンパに明け暮れている。質実剛健さのかけらも無い。昔の学生はもっと骨があった。柔くてひ弱なこいつらが将来日本をダメにする」という感じだったことを思い出す。
 僕はそういうことが言われる度に、オトナって馬鹿だな、と思ったものだ。
 オトナが考えているほど僕らは遊んでいないし、日本の将来について真剣に考えているし、勉強もしている。ただ、勉強していること、そういう真面目な態度を外に向かって主張することを”ダサい”と思っているだけなのに、と当時の僕は思っていたものだ。
 その証拠に当時、オトナが忌み嫌ったゲームやアニメは今やクールジャパンコンテンツとして世界に誇れる輸出文化となっているじゃないか。

 古い考え方は新しい考え方に必ず駆逐される。
 最終的に常に新しいものが正しい。古き良き・・はノスタルジーであって、常に若い世代が世界を変えて来たことは歴史を見れば明らかだ。少子高齢化社会を迎えた日本が元気じゃないのも、国民の平均年齢が30歳くらいのインドが目覚ましい発展をしていることも偶然じゃない。
 そう考えると、「今どきの若い大学生は安易に正解を求める子が多く、それは日本という国にとっては嘆かわしい」というものの見方ももう一度考え直したほうがいいのではなかろうか。

 確かに価値観は多様であり、ひとつの正解を求め過ぎると良い結果を生まないことは多いかも知れない。しかし、今という時代は世界が経済不況に苦しみ、その解決策を見つけることは急務である。だからこそ、まず正解、言い換えれば最短で今の苦境を脱する方法を求める気持ちが働くのではないだろうか。
 時間が無いからトライ&エラー、走りながら考える。まず行動、失敗したらまた考える。
 そういう時代であることを敏感に感じた若者の行動が「まず正解を求める」ということなのかも知れない。僕たちオッサンはそのことが理解できていないだけなのかも知れない。
 「アルゴ」という映画を観た。最近は映画を積極的に観ているとは言い難く、デフレのせいにしてはなんだがチケット代の1800円が高く感じるので、よほど面白いと思える確信が無いとDVDの発売を待ってレンタルで観ること多くなっている。
 この「アルゴ」は複数の知り合いから面白いと聞いたので観に行く決心をしたものだった。
 ストーリーはかつて実際におきたイランのアメリカ大使館人質事件を題材に、混乱時にカナダ大使館に逃げ込んだアメリカ大使館員をイラン国外に逃げさせるアメリカの諜報部員の活躍を描いたもの。
 正直、めちゃくちゃ面白かった。
 今の時代、架空の物語より実際に有ったことを元に作られた映画のリアリティのほうが気持ちに刺さるところがある。
 この「アルゴ」、実際にCIAとカナダによる作戦であったが、1979年当時は大使館の人質の安全を考えてCIAの関与は発表されず、それが公表されたのはのちの1997年のことだった。
 それもまたアメリカ的で興味深い。
 事件からある程度の時間が経ってから公開されるアメリカの公式文書には驚かされることが多いのだろうな、と思うと同時に、どうこう言ってもこういう手続きはとても民主主義的だとも実感する。

 この映画を観て考えた。
 アメリカ映画にはこの手の題材が多いが、その背景にはそれだけCIAをはじめとするアメリカの諜報機関の活動がそれだけ行われている事実があるのだろう。
 きっとアメリカ人はもしものことがあったとき、「国が救ってくれる」とどこかで信じているように感じる。それだけアメリカは国際的にもチカラがあるし、諜報活動のレベルも高いのだろう。
 こうしたある種の「安心感」を覚えていることは確かだ。
 日本はどうだろうか。もしものことがあったとき「きっと助けに来てくれる」と思えるだろうか?
 北朝鮮の拉致被害者のことを考えると「助けに来てくれない」という失望感のほうが色濃いのではなかろうか。
 イギリスには007がある。日本には日本の諜報部員の活躍を描いた映画はあまりない。近年では諜報部員では無いがSPの活動をクローズアップした映画「SP]が記憶に新しい。
 でも、映画においてアメリカ的なものといえばやはりサスペンス&アクション。国家権力に立ち向かう主人公とか、仮想敵国と見えないところで激しく戦うストーリーは多い。テレビドラマとして話題になった「24」などもそのジャンルだろう。
 日本的な映画とは時代劇かヤクザ映画・・・とかだろうか。もしくは平凡な日常を切り取ったようなものが多い。
 日本は平和なのかもしれないが、国境問題や中国との向き合いが注目を集めている今の時代だからこそ、国に対する信頼感というのは今後の日本にとっては大切な気がしている。
 必ずしも軍備や諜報活動を積極的なしてほしいという意味では無く、国家体制が国民を守るという当たり前のことが当たり前のように行われていてほしいと思うのだ。
 ラジオ番組のパーソナリティを選ぶときに考えること。
 もちろん「面白い人」「面白いトークが出来る人」を探すのだけれども、この「面白い」が難しい。「面白い」は人それぞれであるため、Aさんが面白いものがBさんにとって面白いわけではない。ここが難しい。でもその一方で、例えば明石家さんまさんというタレントを「面白い」という人は「面白くない」という人より多いだろうし、「坂道評論家」などと自称するようなタモリさんのマニアックさを「つまらない」という人もあまりいないだろう。
 いろいろな人から「面白い」と思われるタレント、才能というのはそれだけ多くの側面を持っている。いろんな角度から見ても魅力的で「面白い」と感じる存在なのだ。
 実は人間というのは多面体であって、才能がある人というのはそれだけ多くの顔を持っている。
 その側面は年齢とともに経験を積んで増えて行くし、若い頃はその面が少なくてゴツゴツしたまだ角の多い多面体だから「とんがっている」なんて言われるのである。
 もちろん多面体の面が増えて行けばいくほど限りなく球体に近づいて行く。だから歳とって「丸くなった」なんて言われたりする。
 だからラジオ番組のパーソナリティを選ぶ時はなるべくいろんな面を持っている人を選ぶように意識している。プロフィールを書き出したらいくつあるか、なんていうのもひとつの基準だ。
 福山雅治さんのプロフィールは歌手、俳優を始め、ラジオパーソナリティ、カメラマン・・・と挙げていくと数多く、彼の才能の豊かさを表している。
 ビートたけしさんだって芸人であり、映画監督であり、現代芸術家であり、その才能の豊かさは誰もが認めるところだ。

 若くても多面体人間の要素がある人が番組パーソナリティとしては可能性があると考えているのだけれど、実はここのところ少しこの考え方を変えなくてはと感じることが起きている。
 それはやはり、インターネット、特にソーシャルネットワークサービスの発達によるところが大きい。
 ネットの世界で起きていることを端的に表現すれば「誰でも表現者になれる時代が来た」と言えるのではないだろうか。
 ニコ動などから出て来た“ボカロP”を始め、少し前だとマイスペースから出て来たたむらぱんとか、それ以外にもネットの世界で脚光を浴びることで世の中に出ていくきっかけになっている人が増えている。
 これは一時期テレビで「素人ブーム」が起こり、「笑っていいとも」の素人出演コーナーからスターがたくさん出て来た現象と似ているとも感じるが、そのときとの大きな違いはいわゆる「マスメディア」が全くこの現象に絡んでいないことだ。
 市井の人であっても、ネット上で自分の表現の共感者を募ることが出来る時代。
 このような時代にラジオのパーソナリティにはどんな人がよいのかを考えていると「T字型人間」という言葉に行き当たった。
 
 T字型人間とは「T]という文字の縦の棒が「専門性」、横の棒を「広い視野(汎用性)」を表し、高い専門性と広い視野を持ち合わせている人間のことだ。
 こうしたタイプの人間を「理想の人材」として挙げる企業も多くなっている。
 
 すなわちこういうことだ。
 かつては人材に求めらていたのは「多面体であること」だった。これは多様な価値観、多様な能力を持った人間の方が社会適応力が高く能力が発揮しやすいということだろうと思う。
 ところが、ネットの発達により、水平方向のコミュニケーションが劇的に広がった結果、むしろ求められることは「専門性」になった。
 かつては高い専門性があってもこうしたタイプの人たちは部屋の外に出ていかず、他の分野の人たちと接点をなかなか持つ機会がなかったため、その専門性を生かすチャンスがなかなか生まれなかった。
 しかし、近年はソーシャルメディアが発達したため、専門性の高い人がネット上に自分を表現すれば他の分野の人たちと接点を持つことが出来、そこから新しい何かが生まれることが多くなった。
 他ジャンルに目を向ける「広い視野」さえあれば、何か新しいことを起こすことが出来る。
 こうした「T字型人間」こそが今のソーシャル時代に求めらる人材だというのだ。

 この話をラジオのパーソナリティ論に当てはめることもできるし、そもそも、ラジオというのは将来の時代の顔になり得る人材を発掘することが社会的な役割のひとつだと考えると、T字型人間を探していくことが必要なのではと感じている。
 確かに最近人気のニッポン放送社員パーソナリティにも「T字型人間」と思しき人間はいるし、最近の若い世代の言論人たちの活躍もネットをフルに生かした活動をしている人たちがいる。こうした人たちはネットを上手に使い、あっという間に世の中に出ていき、既存のマスメディアの人たちが「後乗り」する状況も生まれている。
 先週、ある番組のスペシャルパーソナリティを担当してもらった評論家の宇野常寛さんなどはこうした「T字型人間」であると思うし、こうしたひとたちがどんどん影響力を持ってい行き、マスメディアは自分の影響力に溺れ、そのことに気が付かなくて慌てる、などという現象も起きるだろう。
 
 自分がT字型人間になるのはちょっと無理、という中年世代はこうした若い世代のタイプをせめて理解する必要があるのだろうと思う。
 今後、世の中を変えていくT字型人間の発掘に務めようと思う今日この頃ではあるのだ。