エンターテインメントの世界で何かヒットを作ろうと思うとき何から始めるだろうか。

 常道はまず最初に分析だろう。これまでのヒットがどのように生まれたかを分析して類型化し、その延長線上に新しいクリエイティブを創り出す。

 しかしながらそんな簡単にはヒットは出ない。特にクリエイティブ側の仕事をしていると、作り手の思い、情動といったものはどうすればいいのか行方を失ってしまう。分析して類型化することならAIにも出来る。だから「のようなもの」を量産することも出来そうだ。

 AKB48がヒットしたらHKT48やNMB48などの「48グループ」を作るのはとてもわかりやすいことだ。でも何故か次のヒットを作り出したのは乃木坂46だった。

 これは似て非なるものだ。なぜ46になったのか、なぜ突然アルファベットが漢字になったのか。今では欅坂46も生まれ「坂道」グループと呼ばれるようになった。そもそも乃木坂46は「コンセプトがないのをコンセプトに、コードネームをシャドー (shadow) とし、AKB48のシャドーキャビネット(shadow cabinet)として存在する(ウィキペディア)」のだそうだ。ヒットが出たらその振り子の反対側にヒットがある、という事なのかもしれない。

 乃木坂46の成功はいわゆる”アイドルファン”をターゲットにしていては生まれなかっただろう。僕から見ても乃木坂46のファンはAKB48のファンと一線を画する。

 「会いに行けるアイドル」を標榜し、ファン目線に降りてきたAKBグループに対し、乃木坂46は私立女子高の雰囲気というか、学生時代であれば「高嶺の花」のようなメンバーが集まったように見える。

 結果として典型的なアイドルの親衛隊になれなかった少年たちの心捉えたのだ。

 果たしてAIはAKB48を分析して乃木坂46を作ることが出来るだろうか。

 このように新しいクリエイティブを生み出すためには常に全く新しい発想が必要だ。この新しい発想をどこから引っ張ってくればいいのだろうか。

 

 僕はラジオの仕事をしていて先輩から教わったことの一つに「ターゲットは点を狙え」というのがある。

 何かクリエイティブを考えるときに分析し類型化するところを離れて新しい発想を獲得するための手法の一つだ。

 ラジオではパーソナリティに対して「リスナーに呼びかける時は”みなさん”ではなく「あなた」「お前」「キミ」と言った単数形で呼びかけてください」とお願いする。(はずだったが、最近はそうでもないのが現状)

 ラジオは基本的に一人で聞いているもの。一つのラジオを数人で囲んでいるのはかなり特殊な状況だろう。だから呼びかけは複数形ではなく単数形。ラジオから「あなた」と呼びかけられたら自分に対してだと思ってドキッとする。「みなさん」だとコンサート会場で聞くMCのようで、ある種の「他人事」感もある。

 こうした仕掛けがラジオを魅力的にしていくテクニックとして存在しているわけだが、かつてオールナイトニッポンを担当したばかりの松任谷由実さんは番組ディレクターの松島宏さんからこの事を徹底された。マイクの前に座って喋るとほとんどの人がリスナーに対して”みなさん”と言ってしまうだろう。でもそこにいる誰か一人に呼びかけた時、松任谷由実さんには新しい光景が見えてきたという。それはリアルなリスナーの姿だった。深夜に部屋で一人勉強する受験生や長距離トラックのドライバーなどなど様々な姿が次々に浮かんできたという。

 こうしたことはラジオを聞いているのが「リスナー」という集団ではなく、それぞれの生活や個性を持った「個人」であることに気づかされる。

 この気付きこそ個性的なクリエイティブを生み出す鍵なのだと思う。

 

 松任谷由実さんはラジオパーソナリティを体験した結果、ステージMCも変化したと振り返る。ラジオをやるまではステージ上でどのように話したらいいか戸惑いを感じていたのだそうだ。しかしラジオパーソナリティを経験し、観客が何人であろうとも一人一人とチャンネルを繋げば同じこと、一人に向かって話しかければいいのだ、と気付いたと言う。この「気付き」自体もさすがユーミン!というところなのだが、確かに納得できる。

 ターゲットを点で狙うとはまさにそう言うこと。よりターゲットを具体的にしていくことで新しい発想を得るのだ。

 乃木坂46もAKB48のファンになれない人のことを想像して作られた発想だろう。

 かくいう松任谷由実さん自身がこうした「ターゲットを点で狙う」を作詞の中で実践している人だ。(続く)

 

 

 

 世の中が嫌な方向に進んでいる気がする。

 元日の日本経済新聞に載っていた「東欧革命、ゆがむ民主化 闘士は「独裁者」に」という記事。

 “東欧の共産主義政権の崩壊や中国の天安門事件など民主化運動が世界に広がった1989年から30年。民主化運動の起点となったハンガリーやポーランドではかつての民主化の闘士による独裁的な政権が誕生。中国やロシアでは当局による市民への統制が強まる一方だ。強権的な指導者が市民の支持を集めるなか、民主主義の理念は厳しい試練に直面している。”

 という内容。

 1989年は僕が社会人になった年。

 「若者」が元気で世の中が変わっていくような気がしていた。

 僕もその「若者」の一人であると感じ、どこかで世界を変えてやる!的な意気込みを持っていた。

 バブル経済の名残の時期、余裕あるがゆえの若者の自由さだったのかも知れない。

 豊かな日本から見て、東欧が変わる、共産主義が行き詰まり、独裁政権が倒れていく様を見て、エールを送るような気持ちになっていた。

 しかしながらあれから30年。あの頃感じていた”共産主義/社会主義=独裁/抑圧”という方程式が必ずしも正しくないことがわかってきた。近年の中国の資本主義的な経済躍進や、自由の国アメリカのまさかのトランプ大統領による保護主義化など、学生の時に教わった現代史を書き換えなければいけないような状況が生まれている。

 

 考えろ!

 そう言われているような気がする。

 来年は東京オリンピックだ。

 オリンピックにより国が盛り上がる、経済が盛り上がる幻想のようなものに向かって日本は今突き進んでいる。

 昭和39年の前回の東京オリンピックの良き記憶がそうさせているのか。

 僕はその翌年の生まれだが、東京のインフラの全てがオリンピックのタイミングで出来上がっていることを思うと確かにオリンピック効果はあったのだと思う。

 でも今回のオリンピックで再び人々は未来に希望を感じられるようになるだろうか。

 子供の時読んだ物語の中の「21世紀」は夢と希望に満ち溢れていた。

 もう20年が経とうとしているその21世紀は不安の世紀であるように見える。

 過去に学び、もっと考えることを今求められている、そんな気がする年の初め。

 

 今日の日本経済新聞の安藤和津さんのコラム。「雨の日の満員電車は最悪だ・・」という書き出しで始まるそのコラムは、電車の中で優先席に横柄な態度で座る若者との不愉快なやりとり、そして渋谷のスクランブル交差点でスマホ片手の若い女子がぶつかってきて尻餅をついたのに、わき目も振らず立ち去る彼女に「ごめんなさいはー!」と叫んだエピソード。

 それを読みながら最近、僕自身が見聞きする通勤電車の中の風景を思い起こす。

 いつと比べて昔というかわからないが、昔に比べてイラついている人が多いように感じる。

 ある日、僕の目の前で会社員風の男性同士の肩が「ドン!」とぶつかる。

 どちらかと言えばぶつかられた方の男性が過ぎ去っていく男性に対して悪態をついた。きっと「気をつけろ」とか「何やってんだ」的な内容だったろう。そして、そのまま前に向き直り歩いていくその男性に向かって先ほどのぶつかって来た方の男性が走り寄り、肩を掴んで無理やり歩みを止めさせる。

 ぶつかって悪態をつくのは通勤時間にありがちな光景かも知れない。しかし、わざわざ戻ってきて諍いを始める光景はちょっと珍しいし、あまり見たことのないものだった。

 言い争う二人は何にイラついているのだろう。

 僕は小学生の時から電車通学だった。だからいろんな大人を見てきたし、いろんな電車内での言い争いを経験してきた。

 でも最近の電車の中にいる人たちのイラつき方はこれまでの人生で見たことのないシーンが多い。

 これまでの電車内というのは譲り合いの精神に溢れていて、時たまイラついている人が騒いだりするのを「まあまあ」と言った雰囲気でやり過ごしていることが多かったように思う。でも最近は違う。喧嘩が始まると、そのうちどちらかが刃物を出してきそうな展開になることが多いように感じている。

 

 かつてしばらくニューヨークに住んでいたことがある。その時言われたことは、もしも変な人に絡まれた場合は抵抗しないこと。

殺されたら元も子もないから、ということだった。

 確かに色々な価値観の人が住む外国の街ではそういうところがある。

 例えば電車の優先席。優先席に座って席を譲らない若者に中高年が説教をする風景はとても日本的だと感じてきた。

 海外だったら(場所にもよるが)注意したことにカッとして何か被害を被る方がよほど怖い。

 

 いつの間にか日本は外国になってしまった。

 僕は52歳。紛れもない中年だ。

 でも、優先席に座っている若者に注意をしたことは一度もない。

 果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか。僕には正直判断することができない。