AIに関することが最近話題によく出る。

 僕の周りの人たちも自分でディープラーニングについて勉強したり、自分のビジネスの中でどう活用するかを考えている人が多く、そのことについて話す機会も多い。

 ITベンチャーに関わっている友人と話していて、彼が問題提起する。

 「AIが人間の代わりをドンドンするようになると、この先、人間は何をすればいいと思います?」

 amazonの倉庫にはすでに出荷する商品をもっとも早く、効率的に出荷できるよう、常に商品棚を並べ替えて整理するロボットがいるらしい。このロボットは太陽電池で動くからコストゼロ。24時間働き続ける。

 クリスマスが近づけば、クリスマスにプレゼントされることが多い商品が取り出しやすいように並べ替えていく。一年を通じて働けば、さらにロボットは学習してシーズンごとの需給を踏まえた整理をする。

 コストゼロで24時間働き、人間よりも優秀。確かにこうした種類の労働は(ロボットがやる時点で”労働”じゃないけど)どんどん仕事からは無くなっていくのだろうと思う。

 編集者が言っていた。「今後はAIに本を読ませて学ばせれば、そのうち”この本はヒットする”とか”この本は社会的評価されるけど売れない”とか判断してくれるようになりますね。編集者のやることがなくなります。」

 最近、AIが打つ囲碁の手が定石と違うので、それを逆に人間が勉強して囲碁の打ち手の新しい地平が見えた、なんて新聞記事も読んだし、今話題の将棋の天才藤井聡太くんもAIで将棋を研究していると言う。

 こうなってくると人間の存在感は根本的に揺らいでくる。

 僕に質問を投げかけたITベンチャーの友人は続けて言った。

 「これからは無駄なものに価値が出ると思うんですよねえ。」

 効果効率を上げていくAIに対して、人間というのは無駄なことをする存在だ。世の中にとって何の役にも立たないことが面白い。

 「例えばコスプレって全く世の中のためにならないけど、愛好家がいるわけじゃないですか?」つまり、全く生産性とない事象にはAIは関わりようがない。そもそもコスプレイヤーたちは何かの生産性を上げようとしたりしてないんだから。

 だからそのことは”人間にしか出来ないこと”として価値が生まれるのではないか?と言うのだ。確かに。

 森永卓郎さんは収集癖があり、ついにはコレクションを見せる博物館を作ってしまった。この博物館はミニカーに始まり、森永さんが「有名人だじゃれコレクション」と呼ぶ品々も展示されている。例えばインスタント味噌汁の「あさげ」に麻木久仁子さんのサインをもらい「あさげくにこ」。いや〜無駄すぎる。でもこうした趣味の人が領域にはAIは入っていけないだろう。

 だからこそ、AIに出来ないこととして将来クローズアップされる可能性があるような気がしてくる。

 僕自身ラジオの仕事をしていて、エンターテインメントは「無駄なこと」だと思っている。人間が生きていくためには全く必要ない。やはり人間は働き、自分の食い扶持を稼ぐのが第一。でも労働の合間にふとした楽しみが必要になる、少し満ち足りてくると楽しいことがしたくなる。そういう人間の性向がある限り、無駄なことの価値は無くならないだろう。

 でも考えてみれば、面倒くさいことは全部AIロボットにやらせて人間は趣味に生きる。そんな単純じゃないかもしれないけど素敵な未来だ。

 

 

 僕は佐藤優さんという作家が好きで、彼の書いたものをよく読んでいる。

 彼はキリスト教徒であり、大学では神学を学んでいる。そんな彼に興味が湧き、佐藤優解説の新約聖書も読んだりしてみた。

 今、彼の「知の教室〜教養は最大の武器である」という本を読んでいるのだが、その中にもやはり宗教について書かれている部分があり、「ユダの福音書」に触れている。

 ユダというのはイエスキリストを裏切った悪名高き男だ。しかし2006年に「ユダの福音書」なるものが発見され、それを読み解くと銀貨30枚でイエスをローマ帝国の兵士に引き渡したのはイエスの指示によるものだったというのだ。

 佐藤優さんによればこのことがキリスト教文化圏に及ぼす影響は計り知れないという。つまり今まで悪者だと思っていた人間が実は良いやつだったというショック。

 宗教にある一面は敵か味方を分ける働きだったりする。だからイスラム国は自爆テロを繰り返す。現代においてそれは西側だったり欧米のキリスト教文化との対立、否定だったりするわけだ。

 僕はある時期イスラム教に対し疑問と興味が湧き、コーランの抄訳を読んだり関連書を読んだりしたことがある。その時わかったことは、簡単に言えばイスラム教はキリスト教を許容しているということだった。むしろキリスト教がイスラム教を認めないから宗教戦争が起きているようにさえ感じられた。キリスト教には異教徒を否定する激しい側面もある。だから十字軍があり、宗教戦争の歴史がある。

 でもこの「ユダの福音書」を受け入れるのであれば、キリスト教はユダの存在さえ許容する寛容、すなわち多元的価値観を認める宗教だということになる。

 僕はこれはすごくハッピーなことなんじゃないかと思う。

 自然の中で多様性の確保が重要なことは自明だけれど、単に人種のみならず文化の差をそのまま受け入れること。世の中にはいろんな考え方があって、それはそのまま受け止めることが自然なんだということ。それをユダの福音書が示しているように感じられた。

 こうしたことの一つ一つが世界を平和にして行けばいいのにと思うけど、個人レベル、人間レベルに落とすとやはり人の好き嫌いはあり、それをそのまま受け入れるというのは難しい。

 でもユダの裏切りがイエスの指示だったなんて、なんというサプライズだろうか。

 失敗を体験させて分からせる親心のようにも感じる。

 いずれにせよ僕はこの「ユダの福音書」の存在が示すことに、これまでキリスト教に対してモヤモヤしていたものが解消したのである。

 

 

 今から25年前くらい(多分)に仲間と酒を飲んでいて人生談義になり、「人間てなんのために生きてるんだろうね?」という議題になった。

 「やりたいことを実現するため」とか「誰かのために何かをするため」などなどそれぞれが熱い思いをぶつけ合っていた。その場にいて議論を聞いていたある俳優さんが、すごく無邪気に「え?幸せになるためじゃないの?」と言った。

 その言葉に僕がハッとさせられた。自分は何のために生まれてきたんだろう?みたいな青春時代のお約束から抜けることが出来ていなかった僕は、そのシンプルな発言が全てを言い当てていることに気づかされたのだ。

 いろんな書物を読んで「我思うゆえに我あり」だの「There is a will,there is a way」みたい文言をふんふんと感心していた僕には「人間は幸せになるために生きている」というごく当たり前でありながらも、なかなかたどり着けない(少なくとも僕はそうだった)真理に簡単に行き着いている彼に嫉妬さえ覚えた。

 この彼の発言は今でもこのあるごとに僕の指針となっている。

 何か困難に出会った時、悩んだ時、「きっと真理はシンプルに違いない」と思い直す。自分の中からは出てこないであろう言葉の数々に耳を傾ける。

 若い人と話していても「夢の実現」みたいな話がよく出る。僕自身も共感しないわけじゃないけれど、全ての夢が実現するわけじゃないし、人間が置かれた環境なんて不公平なもんだし、「そんな上手くは行かないんだよねえ」なんて大人ぶっては見るが、そんな時にいつもその俳優さんが行っていた言葉を思い出す。

 幸せになるために生きる。

 そこには気負いのないシンプルな思いがあるように僕には思える。

 すごく単純だけど、そのために僕たちは日々生きている。

 そしてその日々自体がとても幸せだということに気づく。

 その俳優さんは決して派手ではないが、今も活躍し続けている。

 きっと彼は今も幸せを日々噛み締めながら楽しく前へ進んでいるのだろう。

 僕も今日の幸せを噛み締めながら明日はもっと幸せになれるように生きようと思う。