僕の父親は少年時代を満州で過ごした。
僕は子供の頃から祖父や祖母、そして父や叔父が口にする「満州」という言葉を聞き、特に興味を惹かれるわけでもないままに育った。
かといって父親が満州について話すエピソードは決まっていて、穴を掘っていた?時に叔父の頭をスコップで殴ってそれが今でもハゲになって残っている、みたいな笑い話だった。
僕の3つくらい年下の従兄弟が子供時代に「おじいちゃん、おばあちゃんに昔の話を聞こう」的な夏休みの宿題で話を聞き、まとめたものがよく出来ていたのでそれを祖父祖母が大層喜んで、それを僕に見せてくれたことがあった。
それを読むと従兄弟の話は満州から引き揚げるときのエピソードにフォーカスされていた。いや、他にも色々話があったとは思うが、僕の記憶に残ったのは満州から引き揚げるときのエピソードだった。
それは、ソ連軍が侵攻してきて、日本人を捕虜にしていく、そんな中、祖父祖母、そして父や叔父たちは仲良くしていた中国人の家に匿ってもらい、チャンスを伺って最小限の荷物を持って逃走、無事日本に帰って来れたというものだった。
その話は僕が初めて知るもので、その従兄弟の夏休みの宿題を読んでから、祖父祖母や父にいくつか質問をしたが、特に嫌がらずに答えてくれた記憶がある。
祖父も父もそのソ連軍が侵攻してきたときの話を淡々としてくれた。すごく客観的に。
でも祖母にその話を振ると、「忘れちゃったねえ」というのがいつものことだった。
当時僕は高校生くらいだったが、太平洋戦争のこと、満州のこと、歴史の勉強をしてだんだんいろいろな知識を得て、わかってきたことは、「敗戦・ソ連軍侵攻から中国人に匿ってもらい、日本に帰ってきたエピソード」はまさに「命がけ」だったということ。
一つ間違えば命を落としていたわけで、とんでもない経験なのだと思っていた。
2000年くらいのことだろうか。祖母が高齢になり、父や叔父が交代で九州の祖母の暮らす家に交代で行き、面倒を見ていた時期があった。
それは2005年の正月を迎える年末年始。
年末から僕はその九州の家に行き、祖母と父と過ごしたことがあった。
その時に僕は何か閃いたのかビデオカメラを持参し、祖母に色々質問をして、それを映像に納めることを思いついた。
僕自身のルーツというか、祖父祖母、そしてそれ以前のことをあまり知らないから、この際聞いておこうと思ったのだ。
ところが祖母は色々聞くと「もう憶えてないねえ」というばかり。
それを横で聞いていた父が僕の質問に答えるという構図になった。
九州の家で過ごす合間合間で祖母に訊くがやはり、それを受けて父が昔のアルバムとかを持ち出して説明をすることになった。
僕自身としては残された時間の少ない祖母から何かしたの証言を引き出したかったので、肩透かしを食ったような気分になった。
ところがだ。
1ヶ月後、父は逝く。
その正月のビデオが生きている父を撮った最後の映像になった。
祖母は自分の息子に先立たれるという不幸に見舞われ、数年後に他界。
父は自分の記憶の限り子供時代のことや親戚のこと、たくさん話してくれていた。
ある日急に倒れ、僕が病院に駆けつけた時にはすでに呼吸器をつけられ話すことができず、そこから亡くなるまで遂に父の声を聞くことはできなかった。
数日して病状が悪化し、ずっと眠らされてしまった父。
意識がある状態で目配せでコミュニケーションできたことさえ、ほんの数日だった。
あれから14年の月日が経った。
きっと父にとって予想外だったのは昨年僕に娘が生まれたことだろう。
娘の中のおじいちゃんはきっと僕が撮った映像になるのだろう。
そしてその時の映像を僕はあれからまだ見ていない。
それは残された母が「まだ見たくない」と言ったからかもしれない。
でも父親の誕生日は8月末、もうすぐやってくる。
生きていれば84歳。
そろそろその映像を見てもいいかな、という気になっている。
母に連絡して「見るかい?」と聞いてもいいようにも思っている。
娘は1歳2ヶ月。
こうして命のバトンは引き継がれていくのだね。
お父さん。