個人的なことでこういう場所に書く事じゃなくかもしれないけど、今日は父親の命日。
今から15年前の2005年の昨日12日、亡くなった。
生前の父は無口でシャイな人で、でもなんかどこか男らしい人だった。
僕は父に怒られた記憶がない。かと言って厳しくないわけではなくて、例えば僕が自分の部屋の灯りをつけたまま外出することが何回か続いたあと、家に帰ると自分の部屋の照明器具が根本から撤去されていたことがある。
それについて親父が僕にコメントするわけでもなく、ただ照明のない部屋になっていたことに、部屋に戻って気づく。
そっと母に「部屋の電気がないんだけど・・」と言うと、「お父さんが怒って取り外してたわよ」と。
しばらく暗い部屋で勉強机の電気スタンドで過ごすものの、やはり不便で、父親の元に出向き「すみません。もう電気をつけっぱなしにして出かけません」と謝ると、次の日帰ると復活している、そんな父だった。
だから直接的な会話はとても少なかった。
いくつか記憶に残るやりとりがある。
一つは大学受験の時だ。
一浪して、翌年再び第一希望の大学に落ち、僕は二浪するかどうか悩んでいた。
合格している大学もあり、それを蹴って自分の初志を貫徹するのかどうか。
でも二浪するとさらに親に心配かけるし、それだけ経済的な負担もかけるし、来年受かる保証も無いし・・・。
ふだんはまるで僕の態度に口出ししない父が、珍しく僕に声をかけた。
「余計なことを心配せずにお前の思った通りにしろ」
ただ一言だった。
その言葉に、スッと気持ちがシンプルになったことが忘れられない。
結局はいろいろ環境のせいにしてグズグズしていただけだったと気付かされたのだと思う。
僕は第一希望を諦め、その時合格していた大学に進学、それが分岐点になって今の職業についているのだ。
だからあの時の選択は僕の人生にとって非常に大きかったと思う。
自分が大学で勉強したかったのは経済史だった。南北経済格差に興味を持った僕はそれを解消したいと思い志した。
でもあれは当時若くて無いアタマで一生懸命考えた浅はかな未来像だったようだ。
その後の僕は音楽三昧、エンタメ三昧の大学生活を過ごし、今はエンタテインメントの仕事についている。
フラットな気持ちで大切な選択をすることはとても難しいと思う。
その時々で周りからいろいろな雑音が入ってくるものだ。
父親からは外部のことを気にせず、自分の内なる声を訊け!と言われたような気がしている。
父はかっこいい人ではなかった。
僕の結婚式でもスピーチ原稿を一生懸命書いて臨んだが、書いたことがなんか難しくて、結局ボソボソと喋るその話し方のせいもあり、なんとなく伝わらない感じで終わってしまったこと。
もちろん僕はそれなりに感じ入っていたんだけど。
他にもあまり前へ前へというタイプでは無いので、息子としてその態度にがっかりしたことは何度もあった。
もっと堂々としてくれよ、親父!みたいな気分。
ただ、僕が会社を一年間休職してニューヨークに行くことを決意した時も、「あ、そう」みたいな感じで、よくも悪くも肩透かしだったことも印象深い。
でも、ニューヨークでいろいろ考えて親父に連絡して話したら、小林秀雄全集をニューヨークに送ってきてくれた事は忘れられない。
まさに僕が必要としていたのは「考へるヒント」だったわけだから。
時間が前後するが、小学生の頃、なぜか詩を暗記させれたことがある。
高田敏子さんの「詩の世界」という本を与えられ、その中の詩を暗唱させられた。
その意味は当時全くわからなかったが、島崎藤村の「初恋」をはじめとするいくつかの詩をいまだに暗唱できる。
後になって”教養”とはかくあるべきものか!との気づきをもらったことに今となってはとても感謝している。
父の母、つまりは祖母が高齢になり、福岡に一人で住んでいるため父をはじめとするその兄弟が交代で面倒を見ていた時期があった。
ある年の正月、僕は父親と話したいこともあり、父親の滞在中にその場所を訪ねたことがあった。
早めに祖母が就寝した後、近所のスーパーで買ってきた日本酒の小瓶とつまみを出して親父に「飲もうよ」と誘った。
僕は当時、建築を計画していた家の設計図を見せて話したくて、図面を見せながら酒を酌み交わしたのだが、本来、酒に弱い父は1、2杯飲んだだけで、やはりあまり多くの言葉を口にしてはくれなかった。
でも家の図面については「いいじゃないか」と。そして「じゃあ寝るわ」と。
僕は父と二人で酒を飲んだのは多分この1回きりしかない。
もっと話したいと思ったが、これも親父らしいなと納得して、これからも幾らでもその気になれば機会はある、と思ってもいた。
また、この時、自分の失われていきそうなルーツ、過去のエピソードについて、なにか記録に残したいとビデオを持参し、祖母にいろいろ聞いたのだが、祖母の答えはほとんどが「忘れちゃったねえ」だった。
それを側で見ていた父があれこれとフォローして説明してくれた。アルバムを見ながら、これはいつの誰々の写真、などと言いながらその撮影に割り込んできた。
それが今から15年前の大晦日から三ヶ日のことで、明けた年の2月12日に父は亡くなった。
倒れてから亡くなるまでが約1ヶ月、急な展開だったが、結局この時のビデオが生前の父親の最後の姿となった。
そのビデオは母が「見たくない」と言うので封印したまま15年が経過した。
今年になって母に聞いたところ「そろそろ見てもいいという気になってきた」と言うので、近いうちに家族で上映会をやろうと思っている。
父が亡くなったときは69歳。生きていれば今は84歳。
僕が父と同い年で死んじゃうと、一昨年生まれた娘はまだ17歳。
残していくわけにはいかないので、いろいろ気をつけながらいくしかない。
でも運命は決まっているわけなので、それに抗うこともできないと色々思う今日という父の命日だった。