2021年が終わる

今年は僕にとっては何か「抜けない」年だった。

コロナ禍で保育園に行かない場合、公の補助を受けながらベビーシッターを頼める制度が3月いっぱいで終わり、4月から「仕方なく」通い始めたところ、不適応を起こし、毎朝どうしても行きたいくないと泣き喚く。

いろいろ各所に相談して、結局効率の認可保育園を退園して認可外の保育園に転園。

ドタバタだった。

仕事的には迷いながらも前へ進んだ年でもあった。

ともかくたくさんの人に話を聞いて、助けを求めた。

55歳から56歳になる歳。まだまだ勉強だった。

びっくりするくらいの右肩上がりの成果が出る分野の仕事もあった。

僕の今の仕事はデジタルビジネスと新規事業の2つだけれど、新規事業はなかなか前へ進まない一方で、デジタルはポッドキャスト中心にめざましい動きがあった。

元々音楽好きで、長年ラジオ番組の制作に携わり、霞を食らうような仕事をしてきた僕は、そもそもBSもPLもよくわからなかった。

出資にあたり対象会社の事業計画を見てもチンプンカンプンだったのが3年前。

リーガルな対応を求められ、中高時代の友人の弁護士のところに駆け込んだり、会計士の友人のところに駆け込んだり。

必死で結論、自分の考え方にたどり着いて、何とかやってきた。

今年は石の上にも3年とはよく言ったもので、自分なりの見識も形成されてきたように思う。

これまでの人生にない事ばかりやってきたが故に、尊敬する師匠でもあった土岐英史さんが亡くなったことは、改めて自分の原点を考え直すきっかけにもなった。

まだ事実に向き合えているとは言い難いが、どんな親しい人でも年上から順に亡くなっていく。

同い年の友人だって例外じゃない。病魔に襲われれば亡くなっていく。

人生のある時期は結婚式ばかりで「ご祝儀貧乏だ」などとうそぶいていたけど、それがどれほど幸せな事だったか、今は改めて思っている。

今年は結婚式にはついに一件もなかった。

昨年の12月を最後に僕が結婚式に呼ばれる機会はゼロ。

コロナだということもあったけれど、昨年の12月の結婚式はコロナで延期された結果だった。

葬式は本当に多くなった。

これが年齢を重ねるということなんだろう。

いろいろ自分が考えていた事が実現しない年でもあった。

引越しをしたいと思いつき、いろいろ家を探し出した今年の前半だったが、何かタイミングの合わない感じが続き、今は少し気持ちが鎮静化している。

引っ越すなら2023年だと占い的に出てきたり。

だから今は流れのままに行こうと思ってはいる。住みたい場所はあるので、辛抱強く見ていくつもり。

金銭的なこともあった。

昨年から支出がすごくて、普通口座がマイナスになる危機があった。

他の貯金から補填してことなきを得たけれど、これがお金が回ること?

いや、ただの無駄遣い?

こういうお金の問題は、人生修行的なニュアンスを帯びる。

決して追い詰められたわけではないが、何か支出に伴う精神的な決意を試されているような気がしたのも確かだ。

こんなことは書いちゃダメなのかもしれないけど、こんな歳になってもまだまだいろんな事が起こる。

 

さて鬼が笑う来年だが、一言で言うと「ゆっくりする」一年にしたいかな。

僕は歩くのが少し遅いらしく、朝の通勤時に周りの人にどんどん追い抜かれていき、焦りを感じて自分でも早足で歩いてしまうのだが、来年は「いいや」と開き直り、自分のペースで歩こうと思う。

そう、「ゆっくり」とは言うが、要するに「自分のペースで」という事かな。

何かを目指したり、努力したり、もちろんするんだけど、頑張らないとでもいうか。

自分らしく生きる、という事を見つける一年になればいいなと思ってます。

はい。

 

 

 

こんなことは誰もが読める場所で書いても、それは垂れ流しのようなものだけど、書いておいて晒したい気持ちもあるので書く。

大学4年になってゴールデンウィークが過ぎて、ふと自分が就職活動していないことに気がついた。

もちろん周りは就職、就職と騒いでいるから、わかってはいたんだけど、どうにも自分のこととは思えなかったんだ。

何しろ就きたい仕事がない。

いわゆるメーカーも全くイメージが湧かないし、商社の類も興味がない。

広告代理店とかも派手で面白そうではあったけど、そこを受けに行こうとしている人間たちとタイプが違うと感じてもいて。

結局音楽しか僕には残されていない感覚を持っていた。

自分を見つめ直すと、サックスを演奏するが、すごく上手いというほどではない。

プロになれるかなれないかというと、客観的な視点では「フツー」ってところだろう。

アレンジには少しモチベーションがあって、それは結構行けるんじゃないかと思っていた。

結構学生の間に、他の大学のバンドのためにアレンジを書いたし、三宅裕司さんのSETのイベントのためのコーラスアレンジもしたし、バイトでホーンセクションのコピーなんかもやっていた。

でも、それが果たしてどれほどのものか自分ではわからなかった。

それでもふとしたことがきっかけで今の会社を受けた。

ニッポン放送というラジオ局に大学の先輩がいて、その人は戸田さんというのだけれど、学生の僕たちによく仕事を振ってくれていた。三宅裕司さんとの関わりもその先輩がいたからこそだったが、その戸田さんがブッキングしてくれたイベントがあった。

大学4年生のゴールデンウィーク。代々木第一体育館とかの周辺で行われていたスポーツフェアでの仕事。「MAMA I WANT TO SING」というミュージカルのプロモーションでディアトラ・ヒックスという歌手のバック(実際にはバックはやらず、賑やかしで終わった)で呼ばれた時のことだ。

三宅さんから「節丸は就職どうするの?」と聞かれ、「うちの事務所こない?」と言われたのだ。

芸能プロダクションと言えば、やっぱりキツそうだったな印象があったので、思わず出た言葉は「ニッポン放送受けてからでいいですか?」だった。

で、ニッポン放送を受けたら合格し、入社が決まった。

まあ、昔からラジオ好きだし、テレビ業界はなんか嫌な感じがあったけど、ラジオは少しマイナーな感じが良かったし、他に選択肢もなかったので入社を決めた。

そんなことがあった時期だったが、土岐英史先生のレッスンには行っていた。

なんとなくこのままプロミュージシャンへの道を踏み出すのだろうと思っていた緊張の糸が切れてしまったのかもしれない。

あるレッスンで土岐さんから自分の気の入っていないサックスプレイを怒られる。

「お前プロになるんだろ!」と言うのがお叱りの言葉だったが、それに対する僕の答えが「実は就職が決まりまして・・・」という告白となった。

土岐さんは優しく「あ、そうなのか。もしかしたら仕事でお前の世話になるかもしれないな、よろしく」と言われてその場がおわったのだった。

 

あの時の土岐さんの表情には一抹の寂しさのようなものがあった。

あの瞬間に僕はリングを降りたのだと思う。

どこか後ろめたいような気持ちがあった。

迷っていた時期にまるで自分を救ってくれるように現れた就職できるという機会。

迷っていたがゆえに僕はその瞬間、楽な選択肢を選んでしまったのだ。

楽器を手にしてから一度たりとも自分の楽器演奏や音楽への取り組みを「趣味」だと考えたことはなかった。

音楽は僕の人生そのものであり、食えるとか食えないとかじゃなくて、無くてはならない物であったことは間違いない。

そんな僕にとってラジオ局への就職はその音楽をミュージシャンとしてではない形で仕事にできると言う、ある意味安易な選択肢だった。

自分の心を少しごまかしながら、本筋からは少しずれるけれど、これもまた人生だと開き直れた、ギリギリ自分のプライドのような物を満足させることができる道だったのだ。

あれから33年が経った今、やっぱりその時の後ろめたさは僕の気持ちの中に存在していることに気づいた。

「お前は誰だ?」と言う問いに対して、ずっと誰かのフリをして生きて来たようなそんな気がしている。

土岐英史と言う師匠が僕に残したその印象が、ずっと僕の心の中に残っていて、それを埋め合わせたくて、就職してからもライブに通ったり、たまに打ち上げに行って飲んだり。

でも土岐さんは優しかった。

けれど、それ以降、土岐さんが後進の指導に力を入れて、たくさんのお弟子さんたちがプロとして羽ばたいていくのを見ていて、たまに土岐さんの元に集まるそのお弟子さんたちとのコミュニケーションに入れない自分がいて、少し寂しい気持ちにもなった。

あるライブに行った時楽屋であるお弟子さんを紹介されて、「こいつを応援してやってくれよ」と言われたのを愚直に守って、しばらくそのプレイヤーのために色々やってあげたことがあった。

それもなんか自分の後ろめたさの埋め合わせのようなところがあったことは否定できない。

23歳の僕のあの時の選択は今となっては間違っていたかどうかを語ることに意味はないだろう。

だってもう戻れないのだから。

でも自分の中にあるその後ろめたさは、「お前は誰だ?」という問いからずっと逃げて来た自分への言い訳から来ていることは明らかだ。

やっぱり、今、僕はその問いに真正面から向き合わなければいけない時期に来ていると感じているのだ。

 

 

本日の山下達郎サンデーソングブック(Tokyo fm)で土岐英史さんの特集をやっていた。

長い間一緒にツアーやレコーディングをされていたお二人の関係。

僕は土岐さんの側からの山下達郎さんの話しか聞いたことがなかったので、山下さんが語る土岐英史像に興味があって聞いた。

しかしながらあまり多くのエピソードは語られなかった。

それは深いお二人の関係だけに、一言では語れないところがあったのだろう。

それでも「たくさん酒を飲んで、ときには喧嘩して」という言葉にいろんなことが含まれていると思った。

土岐さんは誰に対してもとても正直なものの言い方をするから、きっと喧嘩になることもあっただろう。

選曲は素晴らしかった。

僕にはない視点。確かに土岐さんはスタンダードを選曲する時、どこから持ってくるのか、みたいな曲を持ってくることが多かったように思う。

それはいつも土岐さんの言う「オリジナル」であることが、スタンダードの選曲にも現れていたということだろう。誰もが知っている曲は一切想像がつくような演奏はしない。

そして誰も知らないスタンダードを引っ張ってきて、オリジナルのように演奏する。

そう「オリジナル」。

どこまで行っても「オリジナル」だ。

36年前の僕が大学生の頃、生徒だった時代にも繰り返し「オリジナル」を強調していた。

なんで誰かみたいに吹こうとするんだ?

お前はお前だろ?

いつもいつも同じ問いにぶち当たる。

「俺は誰なんだ?」

その答えを求めて今の今までも生きてきた。

40才過ぎてから再び手にしたサックス演奏。

土岐さんと違うテナーを主に吹くようになったのも、土岐さんから離れたかったのかもしれない。

アルトだとあまりに似てしまうから。

僕の中にもう一つあるチャンネルのテナーが持つ激しさや図太さへの憧れを形にしようとしてテナーを手に取ったのだと、その番組を聴きながら思ったのだった。

でも、そろそろ素直になろうかな。

僕はやっぱりメロウでソフトで美しいものが好きだ。

だから、アルトが合っているんだなと。

いや、もちろんどれも自分なんだけど、素直に否定していた自分を自分自身に帰してあげようと思った。

僕は仕事ではいつも全力投球で、自分のアウトプットはいつも自分自身の分身だと思って闘ってきた。

でも、年齢を経て、部下もできて、人のアウトプットを評価する立場の分量が増えてくると、なんだか自分がどこかへ行ってしまったような気もする。

最近河口恭吾さんとした作業がすごく楽しくて、やっぱり僕は物が作り出されていくプロセスがすごく好きなのだと再確認した。

そしてそれが誰かのところに届くことを想像するだけで嬉しいし、否定されても肯定されてもそれは評価。常に評価されて自分をブラッシュアップしていくのが物を作る人間の道。

文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を作ったり、それが職業として成立してようがしてまいが、そのこと自体が自分の存在証明なのだから、そしてそれが好きだから。

これからもそれをやり続けていこうと思う。

僕がオリジナルとして成立するために。

土岐さんの音楽、マウスピース に息を吹き込む息づかいから聞こえるその繊細さが改めてこの深夜の時間に僕の気持ちを居てもたっても居られなくしてくれた。

僕自身が誰であるかわかってきたような気がしてきているけれど、だからこそ、新しい自分を発見し続けて行かなきゃいけないんだと思った。50才代にはその年齢のやることがある。

それはわかったように思う自分自身をリニューアル、リバイズ、そしてクリエイトする作業なんだと今夜気がついたよ。

土岐先生有難うございました。

いつだってあなたは僕の原点でした。