僕はラジオ局に勤めているので、近年のテレビラジオ、いわゆるラテの広告市況の長期低落傾向を憂いている。

というか、自分の働いている業界が盛り上がらないと面白くない。

そこで今後の音声メディアとかエンターテインメントがどうなっていくのかを少し真面目に考えてみようと思う。

このブログはその備忘録のようなものにしようと考えている。

 

まずはなぜ僕がラジオの世界で働いているのか、そもそもその動機や背景は何だったのかから始めよう。

僕がラジオを初めて聞いたのは恐らく小学校3年生くらいのとき。当時流行っていたBCLの影響だった。

海外の短波放送を聞いて受信報告書を送り、その証明としてベリカードをもらう。そんな趣味が1970年代~80年代に爆発的に流行していた。

電機メーカー各社は競って海外の短波放送が聞ける「BCLラジオ」を発売、BCLに興じる小学生や中学生数多く誕生した。

僕もその中の一人で、親にねだってソニーのスカイセンサー5800を手に入れ、日々ラジオと向き合う夜を過ごしていた。

多少労力のいる海外短波放送受信もさることながら、気軽に聞ける日本国内の中波放送を聞くようになり、当時はTBSラジオを中心にリスナー生活に入っていった。

テレビを見ることについては小学生の自分に制限が設けられ、低学年時の就寝時間夜8時を過ぎると寝床に入らなければいけなかった僕の楽しみはベッドでラジオを聞くことだった。

当時の僕の心を捉えたのはTBSラジオの「一慶・美雄の夜はともだち」「ヤングタウン東京」そしてニッポン放送の「欽ドン」。ラジオドラマも好きだった。文化放送の当時は司馬遼太郎の「播磨灘物語」、TBSラジオの「ミステリーゾーン」には夢中になった。

さらには地方中波局の聴取にも挑戦し、雑音の中で聞いたどこかの地方局で流れていた「中央フリーウェイ/荒井由実」。

受診報告書を書くためにこの曲のタイトルを聞き取ることができず「中ウォークディスウェイ」のようなピーターフランプトンの曲名のような聞き取りをしたことを憶えている。

当時買ったばかりの2段ベッドの上に寝ながら時にイヤホンでナイター中継で巨人の優勝を知り、ナイターで押して始まる夜ワイドにワクワクしていた夜。

それが僕のラジオ体験の原点だった。

FENにもチャンネルを合わせるようになる。そこで聞いたキッスのハードラックウーマン。洋楽の洗礼も受ける。

意味のわからない英語に耳を傾け、アメリカへの羨望の思いも育てていった。

その頃に感じていた魅力のひとつが「生放送」だった。

自分の暗い部屋でベッドの中でラジオを聞いている時間、別の場所で生き生きと話している人たちがいる。

一人で寝る寂しさを、世界中の同じ時間帯に起きている者同士が励まし合っているような気持になった。

当時よく国鉄がストライキで止まった。徹夜で行われる労使交渉。その結果を報道する朝の情報番組。

息づいている時間の空気を感じるライブ感。

それは僕のラジオの原体験となる。

 

 

 

 生まれてから幼稚園時代。僕は祖母の多大なる世話になって育った。

 祖父母は町の自動車修理工場を経営していて、両親が仕事を持っていた僕は、祖父母の家とその職場である修理工場がその生活の場だった。

 祖父母の家の離れには若い従業員も住んでいて、僕の最も古い記憶は「まっちゃん」という青ヶ島から中学を卒業して東京に働きにきていた若き少年とのことだ。

 離れには2段ベッドがあって、そこにまっちゃんは寝泊りしていた。もう一人いたと思うが、その人のことはよく憶えていない。

 まっちゃんは僕を可愛がってくれて、当時流行っていた銀玉鉄砲を僕に買ってくれたことを憶えている。他にもたくさん遊びを教わった。正月になるとまっちゃんは凧を作った。竹ひごで骨組みを組み、そこに和紙を貼っていく。そしてそこに何か下手くそな絵を描いたような気がする。

 その凧を持って乾いた風が吹く近くの田んぼに出かけていく。夏は青々とした稲穂が実る田んぼも冬は何もない広い空き地になる。その畦道に立って凧を飛ばす。凧の足、すなわち長細く切った紙をどうつけるかが凧の飛び具合を決めるということはその時に覚えた。

 また細かい細工には小刀を使って作業をする。こうした刃物の使い方を教えてくれたのもまっちゃんだ。

 きっと彼は彼なりに東京で暮らす寂しさを僕のような幼い子供と遊ぶことで紛らわしていたのだろう。

 祖父母の自動車修理工場には青ヶ島から定期的に人が来ていたが、決して長くは続かず、まっちゃんはその中でも長い方だったのだと思う。

 彼はきっと20歳になるくらいまで居たと思うがいつの間にか居なくなってしまった。

 青ヶ島に戻ったんだろうか。

 その時にまっちゃんから聞いた青ヶ島は八方断崖絶壁の島で、海が荒れると船が着けられない島。実際にネットで検索すると、まっちゃんから聞いて、頭の中で思い浮かべていた光景とあまり違わない青ヶ島の姿がある。

 未だ青ヶ島に行ったことは無いが、残りの人生、どこかで行ってみたい場所の一つではある。そしてまっちゃんはその後どうしたのだろうか。青ヶ島に戻ったのだろうか。探せるのなら探して会ってみたいものだ。

 

 少し自分の生い立ちのことを書いておこうと思う。

 大した人生ではないけれど、僕がこの世からいなくなった時に子供がこれを読んで思いを馳せればいいなと言うくらいの気持ちで書き始めようと思う。

 

 僕は1965年9月22日朝に調布で生まれた。

 母親に正確な時間を尋ねると「母子手帳を見ろ」と言う。それで母子手帳を探すのだがどうにも見つからない。母は僕に渡したと言うのだが、僕自身がどうしてもその事実を思い出すことが出来ず、未だ見つけることが出来ない。結果として、自分のホロスコープを作ることが出来ないでいる。

 母は幼稚園でリトミックを教える先生。父は中学の国語の教諭だった。僕が生まれた頃は確か狛江中学に勤めていたと記憶している。生まれた時は3800グラムの大きめの赤ちゃんだったようだ。
 「雅矛」と言う僕の名前だが、姓名判断にこだわる母方の祖父と父が画数と意味を考えてつけたと言う。

 雅なる矛。矛のように真っ直ぐ育って欲しいと言う願いを込めてつけたとのことだった。

 余談だがこの雅矛という名前、子供時代には大変に書きづらい名前で、ずっとうまく自分の名前を書くことが出来ず、イライラしたものだ。

 生まれてから3歳まで住んだ家は借家で、母の実家のすぐそばにあった。その実家と言っても木造の古い都営住宅だったが、両親が共働きだったためその母の実家で僕は過ごすことが多かった。

 この家にはレコードプレイヤーがあり、当時のヒット曲マイク眞木の「バラが咲いた」がよくかかっていた。叔父の趣味だったと思われるが、僕はそれに聴き馴染み、これを拙い発音で歌っていたらしい。ピンキーとキラーズなんかも良くかかっていて、歌っていたようだ。それが今、現在の音楽好きと関係があるかどうかはわからないが