朝日新聞の「ラジオアングル」というラジオのコラムが終了するそうだ。

Facebookを見てたら、ライターの森綾さんの書いている終了に関するコラムがシェアされていて、僕はそのことを知った。

この「ラジオアングル」というコラムの取材は僕も受けたことがあるし、森綾さんの書いたコラムの中には僕の知っている同僚や、よく知るエピソードも登場する。

この森綾さんも本当にラジオを好きな人だと感じる。

そしてこういうラジオを愛する人たちはどんどん減っていると今感じている。

ラジオを評する言葉には「あたたかさ」とか「誠実さ」などがよく登場する。それはなぜか。

僕が考える大きい理由は「ラジオは儲からない」からだ。

ラジオのギャラは安い。ラジオDJ、パーソナリティでお金持ちになった人を聞いたことがないし、日本国内では皆無なのではないか。

ラジオで有名になって、他のビジネスへの糸口を作り儲けた人はいるかも知れないが。

テレビに出るタレントにはお金持ちになった人がたくさんいる。業界に身を置く僕は、出演者の奪い合いが起こった時にはギャラはここまで上がるのか!と思うような金額を聞いたこともある。

しかしながらラジオの仕事でギャラが話題になることはない。ましてや出演者の奪い合いがギャラを釣り上げることもないし、それが出演の動機になることもない。それくらいラジオのギャラは知れている。

なぜラジオのギャラは安いのか。

それはラジオの広告費が安いからに他ならない。

放送はラジオに始まりテレビへと進化してきた。テレビがなかった時代のラジオはもしかしたら儲かっていただろう。でもそれは今から80年くらい前の、しかもアメリカの話だ。

日本でも高度経済成長の波に乗っていたところはラジオもそれなりだっただろうが、それでも1964年の東京オリンピックをきっかけに普及したテレビの比ではなかったのではないか。

免許事業で独占的な利権を手にした放送局は守られて成長した。もちろんその反動でテレビは批判され、厳しい監視の目に晒されるようになり、一時期の輝きを失ってしまっていることは現在の状況を見れば明らかなことだ。

でもラジオはテレビよりも早く、下り坂へと入っていた。僕の記憶では911で世の中の雰囲気がガラリと変わり、その下り坂が加速したように思う。

広告というのは楽しいお祭りに集まってくるものであって、真面目なニュースや、暗い話題の後にCMを流したいというスポンサーはいない。その流れは今でも続いている。

かつて、コカ・コーラのCMはとても素敵で、その場所で生まれたヒット曲や、出演者もいた。商品を押し付けがましくアピールするのではなく、さりげなく誰もが憧れるようなライフスタイルの1シーンを切り取って、その中にコカ・コーラがある、というスタイル。

そのCMによく出演していた松本孝美さんというモデルのファンだったこともあるし、CMで使われた曲もヒットした。矢沢永吉の「時間よ止まれ」もそうじゃなかっただろうか。
今となってはそういう「カッコいい」CMは消え、健康食品を販売するような、直接的なものばかりになってしまった。

どんどん「遊び」が消えていく。

失われた10年と呼ばれるような時期を経て、未だに長期不況が続く日本においては致し方ないかも知れないが、「遊び」がなくなっていくということはエンターテインメントにお金が回らないということだ。

現在は一部の熱狂的なファンがいるエンターテインメントにはお金は集まってはいるが、それは普段の生活でコツコツとお金を倹約して、いざというときに自分が大好きなものに投入する、そんなイメージの使われ方ではないだろうか。

だからそういう場所では高額商品が飛ぶように売れたりする。

このような極端な差がついている時代だ。

ラジオという地味なメディアに回るお金は元々少ないというのに、どんどん減っていく。

テレビ、映像がビデオ、DVDと行ったメディアで稼ぐことができたのに対して、ラジオのアーカイブが商品化したこともほとんどない。一部アニメ系のものでは音声CDの販売もあったが。

世界的にヒットする映画や映像作品が生まれることはあっても、世界中で聞かれるラジオ番組はアメリカングラフティの頃のウルフマンジャックくらいしか思い浮かばない。

そんな安いギャラのラジオに出演してくれる奇特なタレントの人たちはそりゃ「ラジオはギャラじゃない」とか言うのです。

その感じがラジオにある「あたたかさ」「誠実さ」につながっているのだと僕は思うのです。

かく言う僕もラジオが好きな理由の一つが、この「儲からない」にあると思っている。

と言うのはラジオ業界には「お金、お金」とうわ言にように言う人が近づいてこないからだ。
ビジネスの世界には立派な志の人もいる一方でお金の亡者がいるものだ。

だからオリンピックだの、ワールドカップだのと言う世界的なイベントの周辺にはうじゃうじゃ怪しい人が集まり、だから当たり前のように世界で一番スポンサーが付くアメリカのためにオリンピックの試合のスケジュールが組まれることは、もう今となっては有名な話であり、そのことに誰も文句を言わなくなってしまった。

世界の人が集まる祭典なんだから、世界の人たちが均等に見やすい時間にスケジュールを組むべきでは?なんてことを言う人もいない。この前のオリンピックだって、日本の人にはとても不自然な時間にメインイベントが組まれていた。アメリカのゴールデンタイムに合わせてイベントが作られていたからだ。

全地球的レベルで見ても、やっぱりお金をたくさん出す人が偉くて、みんながそっちを見てなびくのである。

愚痴になってしまった。

儲からないからラジオはいい、なんて思っていたんだけれど、それが洒落にならないレベルにまで来ているのが今の状況である。

「これからはラジオだ」なんて特集がブルータスとかで組まれたりするが、それは絶滅する幻の魚を釣ろう!みたいな特集とあまり変わらないような気がしている。

本当にこれからはラジオだ!と言う時代が来るなら、お金がラジオに集まらなきゃいけない。

一家に一台さえラジオがあるかどうかの時代。ラジオ自体が電気屋の片隅に追いやられてしまっている。

radikoで聴く人が増えた、と言う声も聴く。それは事実だ。

でも、世の中が変わるほどじゃない。やっぱりyoutubeのような映像が強い。

ラジオそのものをyoutubeに違法アップされた番組を聴いている人も多いのだから。

当然、そこにはラジオ番組のCMは流れず、youtubeの映像CMが流れ、全く別の経済圏が発生している。
ちっともラジオのためになっていないのだ。

ラジオが好きと言っている人!あなたはラジオを聴くためにお金を払えますか?

 

 

ラジオはこれまで何度も「終わった」と言われてきた。

1964年の東京オリンピック。オリンピックを見るために爆発的に普及したテレビ。

テレビの台頭ぶりにラジオはもう終わった、と言われた。

でも1967年。オールナイトニッポンが始まるが、その前後に「深夜放送ブーム」が起き、戦後ベビーブームで生まれた団塊世代が受験の傍ら聞く番組がブレイクする。

インターネットが台頭した2000年ごろ、ラジオは終わったと言われた。ご存じの通り、ポッドキャストや、インターネットラジオなど、ラジオはいまだ生き残っている。

考えてみれば「聞くエンターテインメント」はいつの時代でも必要とされているものだろう。

ハンズフリーのエンタメと言われているが、一昔前は「ながらメディア」とも言われていた。

何かをやりながら楽しめる。手は仕事をしているが耳はラジオに、というのがラジオのレゾンデートル。

地味ながらも必ずそこにある。ラジオという安い、手軽、簡単なデバイスで楽しめる。

今ではradikoを通じてスマホが音声プレイヤーになり、ポッドキャストにおいてもスマホが音声プレイヤーだ。

次のデバイスの登場があったとしても、そこには動画とラジオの要素は必ずあるに違いない。

 

ラジオの発展の大切な要素は音楽だった。

よく語られる最初のフリーミアムモデル。

ラジオ放送が始まった当初、レコード会社は自分たちの商品である音楽がラジオで流れることで売れなくなると考えて、放送で音楽を流すことに大抵抗した。しかしながら結果としてはプロモーション効果によりレコードの売り上げは上昇し、フリーミアムモデルとして分析されるようになる。

現在の状況がその当時と似ていることはよく言われることだ。

音楽のサブスクはまさにその転換期、移行期にあると思うが、デジタル上での音楽にはいまだに不自由な面が多い。

デジタルでの音声エンターテインメントでは、(簡単に言えばポッドキャストでは)音楽を使うことが叶わない。

BGMですらだ。

デジタルオーディオコンテンツには音楽番組は存在しない。

この問題はシステムではなく、各団体の利害関係にある。

その問題に深くは入らないが、そのうち解決するに違いない。問題はその解決までのスピードだ。

いつの時代でもスピードが遅いとビジネスとしては後手にまわり旨味が取れないというのは誰もが認識するところだろう。

そこをどうやって突破していくかが現在最大の注目ポイントでもあるはず。

 

しかしながら音声エンターテインメントというのは望まれているのだろうか。

そもそも衣食足りて・・・必要になるのがエンターテインメントだ。

本当に生きるか死ぬかの状況では優先順位が下がるのもエンタメ。

しかしながら、ある低程度余裕がある状況下においてはエンタメが生きるか死ぬかに大きく影響することもよくあることだ。

曲やラジオに救われて自殺を踏みとどまった人がいることは想像に難くない。

音声エンタメの状況も国によってかなり違うようだ。

国営放送しかないような国ではテレビにしろラジオにしろそこにエンタメ性はなかなか難しいだろう。

いろいろ考えると今のエンターテインメントの世界のひとつのポイントは「物語」ではないかと思っている。

 

ラジオの魅力とは何か。

自分が小学生のときに感じたライブ感。

今この瞬間にどこかで自分と同じように起きている人がいる、と感じた深夜放送への共感。

徹夜で労使交渉してストライキを阻もうとする、賃上げを飲ませようとする人たちがいる、そしてそれを伝える人たちがいるというライブ感。

いずれにせよ、ラジオの魅力は生放送にあると薄々感じていた子供時代

そのことを猛烈に実感したことがある。

ある人が「今FEN聞くとすごいぞ」と教えてくれたことがある。ときは湾岸戦争時、同じことはイランイラク戦争のころにも起こっていた。そのころはもしかするとAFNに改称されていたかもしれない。

(ある意味FENのFar East Networkという名称にも軽くショックを受けたことがあったが)

オンエアで戦地に向けて出発する〇〇艦隊をアナウンスするのだ。

そのアナウンスの間に音楽がかかる。まるで映画「地獄の黙示録」のシーンのように感じた。

戦地でサーフィンするシーンがあり、そこでローリングストーンズがかかるあれだ。

空母が出向して戦地に向かう。それをオンエアでガンガン煽る。それを聞きながら盛り上がる海兵たちのイメージが浮かぶ。

ラジオっていうのはなんか空恐ろしいメディアだなあとその時感じた。

ヒトラーが自分の演説をラジオに乗せることにこだわったというエピソードも思い出されるし、アメリカでは大統領の演説は必ずラジオでオンエアされると聞いたことがある。

小泉総理が在任当時「小泉純一郎ラジオで語る」という番組をニッポン放送で持っていたことも思い出される。

ラジオの生放送にある高揚感や、どこか右脳に直接訴えかける音声メディアの訴求力は麻薬のようにも、劇薬のようにも感じるところがある。

僕自身もラジオリスナーの狂気を目撃したこともある。

人気絶頂の男性アーティストのいわゆる「出待ち」リスナーのなかに、刃物を自分の手首にあてて「私と結婚して!」と叫ぶ女性がいた。タレント入りのときにそのような行動に出たため、警備員含めスタッフが本人を説得、その刃物、果物ナイフを取り上げた。

しかしながらタレントが出るときにはもう1本刃物が出てきて同じ行動をとったことに驚きながら「2本持ってたのか!」と笑った話。

でも、「会える気がする」のがラジオだし、生放送はその場所にその人がいる、と感じられる高揚感がその魅力。

ある意味、その女性が本当に手首を切るとは思えなかった。

でも狂気とはそんな気がしない人が突然路上で銃を乱射するみたいなことだと思うのだけれど、ラジオリスナーが作りだす狂気というのは気遣いに満ちている、そんな気がしている。

だからラジオのイベントで、すごいイベントがあるのにも関わらず、事件化するようなことがないように思うのは贔屓目に見過ぎだろうか。

僕自身は横浜アリーナで番組イベントを実施した際、開演前に観客で巻き起こるウェーブをステージの袖から見て涙した思い出もある。

「伝わっている」という実感こそが制作者のカタルシスであることを知った瞬間でもあった。

このラジオ的な性質はテレビと違うのか。

それに対する答えのようなエピソードがある。

昔あった「進め!電波少年」という番組に出ていた某タレントが、突撃ロケを売りにするその番組ブレイクすればするほど、街中で突然飛び蹴りをされたりして辛かった、という本人の体験を聞くにつけ、「ラジオと違うなあ」と感じたことを思い出す。

ラジオリスナーは決してパーソナリティに飛び蹴りとかしない。

だから僕はラジオが好きなのだ。

亡くなった児玉清さんが晩年ラジオのレギュラーをされていたときに、僕に語ってくれた話。

街で「いつも見てるよ!」と声をかけてくる人は何を見ているのか聞くと答えられないのに対し、ラジオを始めてから増えた「いつも聞いてますよ!」という人は本当に聞いていて、事細かに感想を言い、控えめに声をかけ、控えめに去っていく、という。

ラジオだなあ、と思う。

児玉さんも当時、「ラジオっていうのはある意味誠意のあるメディアですねえ」的なコメントをしていたことが印象深い。

ラジオが売れず、聞く人も減り、スマホでradikoなんて時代。

場合によってはポッドキャスト。

そんな時代には、僕が感じていたライブ感はどこへ行ったのか。

そのことが気になって仕方がない。