河内 八尾寺内② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①大信寺山門②大信寺本堂③八尾天満宮中門④八尾天満宮本殿⑤来迎院西願寺⑥佐野龍讃堂

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府八尾市

 

 慶応4年(1868)1月22日、大坂を支配下に入れた明治新政府は大坂鎮台を設置、27日に大坂裁判所と改称して大納言・醍醐忠順が総督、宇和島藩主・伊達宗城が副総督となった。

 

 4月、大坂裁判所に町地を除く周辺部を管轄する司農局が設置され、5月2日には大坂裁判所に替わり大阪府が設置され、忠順が初代知事となる。6月8日、大阪府司農局が南北に分割された。

 

 明治2年(1869)1月20日、北司農局が摂津県に、南司農局が河内県に改称され、河内県庁が真宗大谷派八尾別院大信寺の対面所に設置された。1月22日に前大阪府判事・税所篤が知事に就任する。

 

 河内県の管轄地域は若江郡(寺内村など50村)・渋川郡・茨田郡・交野郡・讃良郡・河内郡・高安郡・大県郡・志紀郡・安宿部郡・古市郡・丹南郡・丹北郡のうち旧幕府・旗本領の計288村であった。

 

 しかし同年8月2日には河内県は堺県に編入され廃止となる。明治4年(1871)7月14日の廃藩置県を経て、同年11月22日(1872年1月2日)第一次府県統合により旧藩領を含む全域が堺県管轄となる。

 

 明治13年(1880)4月15日、郡区町村編成法が堺県で施行され、行政区画としての若江郡などが発足、大信寺に八尾郡役所(まもなく丹北高安渋川大県若江河内郡役所と改称)が設置される。

 

 明治14年(1881)2月7日、堺県が大阪府に編入され、大阪府の管轄となる。明治20年(1887)大信寺のある若江郡寺内村が八尾町と改称される。

 

 明治22年(1889)4月1日、町村制の施行により、八尾町・大信寺新田・萱振村など16の区域をもって(町村制)若江郡八尾村が発足、大字八尾に村役場が設置される。

 

 明治29年(1896)4月1日、郡制の施行により、丹北高安渋川大県若江河内郡役所が管轄する各郡と志紀郡三木本村の区域をもって中河内郡が発足、中河内郡八尾村となる。

 

 明治36年(1903)8月1日、八尾村が町制を施行して中河内郡八尾町となり、昭和23年(1948)4月1日、龍華町・久宝寺村・大正村・西郡村と合併して市制を施行して八尾市となり、中河内郡を離脱した。

 

 

以下、現地案内板より

 

大信寺(八尾御坊)

 

 真宗東本願寺の別院、慶長11年(1606)久宝寺村の森本七郎兵衛貞治ら一七人衆は、東西本願寺の分立にさいし、東本願寺教如上人に属したため、村を出て八尾庄四町四方の地を与えられて移住、八尾御坊を建立、寺内町をつくり八尾発展の基を開いた。

 万治3年(1660)現地に移建、天明8年(1788)京都の本山が焼けたときは、この本堂を移して仮御影堂に代え、10年後再びかえされ旧に復した。

 昭和28年3月3日突如本堂の棟がくずれ、その後いまのような全面改修となった、境内には河内県庁跡があり、お逮夜市でにぎあう。

 

八尾市教育委員会

 

 

お逮夜市

 

 八尾御坊(大信寺)と久宝寺御坊(顕証寺)との間につづいた露天市である、現在は交通事情のため、八尾御坊の境内、御坊前の道路上に露店商が店をならべ苗物、農工具、古着、荒物、雑貨品などを売り買物客でにぎわっている。

 むかしは大和方面からも買物に来たという。お逮夜の起源は明らかでないが、毎月27日は宗祖親鸞聖人の逮夜目にあたり、その法要に参拝する人々を目当てに開かれたのでこの名がある。

 11日にも聞かれているがこの起源は明らかでない。

 

八尾市教育會員会