河内 仲村神社 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①拝殿②菱澤池③菱江稲荷神社④境内⑤鳥居⑥西庄寺と地蔵堂

 

訪問日:2024年8月

 

所在地:大阪府東大阪市

 

 天然痘(=疱瘡・痘瘡)の記録に残る世界で最初の死者は、ミイラに痘痕が確認された古代エジプト第20王朝のファラオ・ラムセス5世(在位B.C.1145-41)といわれている。

 

 B.C.430古代ギリシャにおける「アテナイの疾病」や165年から15年間にわたり少なくとも350万人が死亡したローマ帝国の「アントニヌスの疾病」は天然痘だったとされる。

 

 また12世紀の十字軍の遠征以来、西洋では流行を繰り返しながら定着し、アメリカ大陸ではコロンブス(1451-1506)の上陸以来、免疫のなかった先住民族が壊滅的な被害を受けた。

 

 侵攻軍によって持ち込まれた天然痘は、アステカ帝国(1325-1521)やインカ帝国(1438-1533)の滅亡の大きな原因といわれ、いずれも征服後は先住民族の人口が激減した。

 

 中国では後漢(南北朝時代の495年に、斉(479-502)が北魏(386-535)との戦いで流入・流行したというのが最初の記録で、その後中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島にも広まった。

 

 日本では、大陸との交流が盛んとなった6世紀半ばに最初の流行が起きたと考えられ、当時仏教の信仰を巡って排仏派の物部氏や中臣氏は、疫病の流行は神罰として崇仏派の蘇我氏を責め立てた。

 

 また天平7年(735)から同9年(737)にかけての大流行では、藤原四兄弟(不比等の子)をはじめとして、当時の日本の総人口の25〜30%にあたる100〜150万人が死亡したと推計されている。

 

 聖武天皇は仏教の力に頼り、天平13年(741)国分寺建立、天平15年には(743)大仏建立の詔を出した。また天然痘が擬神化された疱瘡神除けのための神事が各地に広まった。

 

 その後も天然痘の流行は繰り返され、江戸時代には定着して誰もが罹患するようになったが、北海道では交易盛んになるにつれ、抵抗力のなかったアイヌの人々の人口が減少した。

 

 強い免疫性をもつ天然痘の膿を弱毒化して健康人に摂取し、免疫を得る人痘法が18世紀に入って英国や米国で実施されて予防に役立ったが、死亡率も2%ほどあった。

 

 その後、ヒトには軽度で済む牛痘に罹った者が天然痘に罹らないことが判明し、英国のエドワード・ジェンナーが1796年に8歳の少年に接種に成功し、安全性の高い牛痘摂取法が開発された。

 

 日本では緒方洪庵(1810-63)らの努力により牛痘法が本格的に普及し、国内では昭和30年(1955)の患者を最後に、天然痘患者は報告されていない(国外感染を除く)。

 

 1980年、WHOは「地球上からの天然痘根絶宣言」を発した。ただし天然痘ウィルスを保有する国は複数あるとされ、人工合成も可能といい、米国は全国民3億人分のワクチンを備蓄している。

 

 

以下、現地案内板より

 

◆仲村神社略記 《延喜式内社》

御祭神 己己都牟須比命(興台産霊命)

 「新撰姓氏録」によれば

己己都牟須比命——天兒屋根命——藤原朝臣 大中臣朝臣 中村連

とあり奈良の春日大社、河内の枚岡神社の御祭神 『天兒屋根命』の親神様『己己都牟須比命』を祭祀奉る神社であります。

御神徳 《病気平癒》《家内安全》《事業繁栄》《交通安全》《学業成就》《厄除け》《良縁結び》

御由緒

 当社は延喜式内社と申しまして、延長5年(927)に完成した「延喜式」五十巻(醍醐天皇)の巻第九神名帳に「河内の国、若江郡、中村神社」とあるが如く千年を越える古い歴史を持ち、その創立は当社の御祭神より分かれた藤原氏、中臣氏と並ぶ《中村連氏族》によって氏神として奉斎せられたことに始まり、近世には「菱江村 」の氏神様となり、当時流行していた疱瘡(天然痘)の病魔退散の神として又、身体健康、家内安全を守る神として近郷近在は勿論、遠くは京都、阿波の徳島、淡路の庶民より崇敬され、上は朝廷藩主の信仰にも接し、その霊験も大なるものがあった。その証として淡路洲本の住人、陶山与一左衛門長之が病気平癒を祈願して後、目出度く完治した事を感謝して寄進した朱塗りの鳥居一基(元文3年、1739)又、寛政4年(1792)には、大坂城代であった紀朝臣正順(堀田正順)が伝染病の流行を恐れて、大阪庶民の為に当社に祈願し、その謝恩として寄進したとされる石灯籠一対が、境内に現存し当時の信仰を現代に伝えている。

夏祭 7月25日

秋祭 10月16日

月次祭 每月1日、15日、16日

末社 琴平神社 御祭神 琴平大神

   菱江稲荷神社 御祭神 宇賀御魂大神

 

 

菱江と仲村神社

 

東大阪市内には、菱江・若江など水辺を表わす地名があります。古代に河内平野が大きな入江となり、その岸部であることを示す名前なのでしょう。いつ頃からこの付近に人が住みはじめたかは不明ですが、玉串川が二つに分流する間に出来た、すこし高くなった所に住んだものと思われます。

 仲村神社は貞観9年2月に官社になっており、若江郡の二十二座の一つです。祭神は己々都牟須比命(天児屋根命の親神)としており、平安時代に編さんされた「新撰姓氏録」には、中村連の先祖とされています。このことから、枚岡神社を中心とする中臣氏は、河内平野にも進出していたであろうと推定されます。(玉川百年のあゆみ)

 また、「当社は疱瘡を病める者祈願すれば験ありと称し、参詣する者多し。(中河内郡誌)」とあり、正徳4年(1714)阿波淡路の領主蜂須賀候の家臣陶山与一左衛門長之・水谷平右衛門勝政より疱瘡全快の謝恩のため鳥居が寄進されています。伝承では、何か祈願をする時は、大和川(菱江川)に入り斎戒沐浴を行う川瀬の祓いを行ないます。

 そして、社殿の軒下の雨だれの砂を頂き、これを袋に入れて腰に下げお守りとしたそうです。大和川が付替えられてからは、境内の菱沢池で祓いを受けたのですが、その風習も大正時代にはなくなったそうです。

 

昭和62年4月  大阪玉川農業協同組合 東大阪市教育委員会

 

 

菱澤池

 本社は、往古より疱瘡除けの神として中河内郡誌にも「疱瘡を病めるもの祈れば験ありと稱して参詣するもの多し」とあり江戸時代には信仰を集めました。その祈願をするとき必ず禊をしたと言ふ、大和川に入り斎戒沐浴を行いそのうえ川瀬祓を行った。そして社殿の軒下の雨垂れの砂を頂き、これを袋に入れて腰に下げお守りとした。ところが、大和川が付け替えられて流れがなくなり、その後は境内に現存の池(菱澤池)に入り禊をして澤邊祓を奉仕したとされる。

しかしながら時代の変遷により環境も著しく変わり池の水位も漏水により保存困難となり、かって先人が郷土の発展の為に歴史の上に築かれたものであり五穀豊穣、家内安全を祈願されたものです。

 

改修平成9年7月吉日  菱江仲村神社

 

 

西庄寺 石造地蔵菩薩立像

 

 西庄寺門前の地蔵堂にまつられる、この石仏は、南北朝時代の造立で、菱江地域の歴史の古さを物語る文化財として、東大阪市文化財保護条例により、昭和53 年6月23日に市の指定を受けています。

 石仏は花崗岩製で、総高113cmあり、舟形光背形に加工した石材の前面下方に、反花と仰蓮の上下2段になる蓮座を突出させ、その上に像高79cmの地蔵菩薩立像を厚肉彫し、像の頭部後方の円形頭光と錫杖頭の彫刻は薄肉彫りされています。

 この石仏は、宝暦10年(1760)及び明治2年(1869)の『菱江村明細帳』の中に、「辻堂石地蔵一躰 屋敷拾步程御見捨地」とあらわれる石仏と考えられます。北側にある仲村神社は、平安時代の『延喜式神名帳』にのせられる古社の一つで、神社の東方一帯には、南北朝の戦いの時に焼失した、菱江寺の跡が埋もれているといわれ、石仏は、その辺りの田地から掘りだされたと伝えています。

 石仏は、相当摩滅し、鎌倉時代の余風をとどめていますが、表現に強さを示さず、特色も少ないことから南北朝時代前期の造立と考えられます。

 

平成5年12月 東大阪市