近江 繖山 安楽寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂②境内③山門④石段⑤寺号碑⑥愛宕神社

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:滋賀県東近江市

 

 仕事が少し一段落したので修行に出ることにした。日本遺産「琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産」である伊庭と、久しぶりの安土城と城下町に詣でようと思う。

 

 愛車ではなく電車で行くことにしたのだが、人身事故とやらでダイヤは大きく乱れるも、逆に予定より少しばかり早く能登川駅に到着する。伊庭は平日でもあり、観光客はいない。

 

 伊庭御殿から安土へは朝鮮人街道を歩くことにした。どこか食事ができるところがあればと思ったが、ない。その代わり、望湖神社や繖峰三神社と予定外に参詣することとなる。

 

 予定外の最後が安楽寺である。安楽寺は、聖徳太子が近江に建立した48ヶ寺の1番目という伝説が残り、石段の両脇に残る僧坊跡からも、かつての威勢をうかがい知ることができる。

 

 その安楽寺が、天正4年(1576)織田信長の焼討に遭い、灰燼に帰したという。この年の正月には安土城の築城が始まっている。その目と鼻の先の安楽寺がそのような時期に何をやらかしたというのだろう。

 

 あるいは、単に織田勢が築城のための石材を求めて、反抗的であった寺院を攻撃するようなこともあったかもしれない。ようやくたどり着いた安土城の大手道には石仏を転用したものがあった。

 

 信長の館を経て桑実寺で帰りの電車を確認するとまた運転を見合わせているという。そういえば道中で貨物列車がけたたましく警笛を鳴らし、停車しているのを見かけた。踏切の無理な横断らしい。

 

 ということで、足腰は限界に近かったが、さらに沙沙貴神社・浄厳院とゆっくり眺めることができた(予定通り)。アプリによると、この日の総歩数32,088歩、消費カロリー1,161kcal、移動距離22,691mであった。

 

 

以下、現地案内板より

 

安楽寺遺跡

 

 安楽寺遺跡は、石段の参道を登ったところに所在する「安楽寺」を中心とする中世の遺跡です。安楽寺は、『近江神崎郡志稿』によれば、天正4(1576)年に織田信長によって焼き討ちにあい、その後、江戸時代の中ごろには再興されますが、嘉永6(1853)年と明治12 (1879)年に火災に見まわれました。現在の本堂は明治13(1880)年に彦根井伊家護摩堂より移築されたものと言われています。

 安楽寺遺跡の詳細は不明ですが、地元の古文書(市指定書跡 八王子法橋伝来文書)によると、中世においては繖山一帯に七堂伽藍を備えた大寺院であったと伝えられています。また、大きな2つの僧集団があったことも明らかになっています。安楽寺に向かう参道石段の両側の雛壇状に広がる平坦面には、多数の立派な堂や僧坊が建っていたと想像されます。

 当寺は山号を繖山と称し、現在は同じ繖山に所在する観音正寺・桑実寺(以上近江八幡市)、石馬寺・善勝寺(以上 東近江市)とともに繖五山の一つに数えられる、天台宗の寺院ですが、『近江與地志略』には「聖徳太子が近江に建立した48寺院の第1番目」という伝説が残っています。

 

東近江市教育委員会 平成24年度里山と文化財が織り成す地域資産再生事業

 

 

安楽寺古墳群

 

 安楽寺古墳群は、安楽寺の後方の山(通称 伊庭山)の尾根上などに分布する古墳群で、現在10基が確認されています。これらは円墳で、古墳時代後期(6世紀〜7世紀)に造られた古墳です。

 安楽寺古墳群は、繖山からのびる支脈に分布する古墳群の一つで、ほかにも佐野山古墳群・善勝寺裏山遺跡(以上佐野町)、市指定史跡の山面古墳群(佐野町・猪子町)、西山古墳群(猪子町)、能登川北山古墳群・望湖古墳群(以上 伊庭町)、須田山古墳群(北須田町)があり、繖山の古墳群全体では、現在130基以上が確認されています。

 安楽寺古墳群は、調査が行なわれていないため詳しいことはわかっていませんが、同時期と考えられる山面古墳群では調査の結果、金環(耳飾り)や瑪瑙製の勾玉、ガラス製の管玉など当時の貴重品が出土しています。

 

東近江市教育委員会 平成24年度里山と文化財が織り成す地域資産再生事業