近江 安土城③天主跡周辺 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①天主台を望む②天主台③本丸より天主台石垣④二の丸信長公本廟⑤黒金門から二の丸へ⑥黒金門

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:滋賀県近江八幡市

 

 村井貞勝は、近江国の出身とされるが、早くから織田信長に仕え、弘治2年(1556)信長の弟・織田信勝が信長に叛いた際は、兄弟の母・土田御前の依頼を受け、島田秀満とともに信勝や柴田勝家らとの和平交渉に臨んだ。

 

 永禄11年(1568)信長が足利義昭を擁して上洛した際には、京都に留まって織田家の政務を担うとともに、義昭の二条御所造営や京都御所の修築などを担当した。

 

 天正元年(1573)信長が義昭を追放した後は、京都所司代に任ぜられ、織田政権の京都における行政を担うこととなる。天正3年(1575)正六位下・長門守に叙任される。

 

 天正4年(1576)二条新御所の造営を命じられ、天正5年(1577)御所の築地塀の修復では、京都の町人を動員して歌え踊れの大イベントの中、瞬時にこれを完成させたという。

 

 イエズス会宣教師ルイス・フロイスは 1577年(天正5年)9月19日付で、貞勝について「都の総督」「尊敬すべき老年の異教徒で、甚だ権勢あり」と評している。

 

 安土城の造営との関わりは不明だが、天正7年(1579)に完成した安土城天主復元の主たる参考資料である太田牛一の『信長公記』の内容は、貞勝の記述を引用している可能性があるという。

 

 天正8年(1580)本能寺の改築を命じられ、防御面の強化を施した。天正9年(1581)家督を長男・貞成に譲り、出家して春長軒と号し、京都所司代は引き続き務めた。

 

 天正10年(1582)4月25日、武家伝奏・勧修寺晴豊が貞勝を訪ね、散位であった信長の任官(征夷大将軍・太政大臣・関白のいずれか)、いわゆる三職推任問題について協議した。

 

 その結論が得られないまま、6月2日の本能寺の変を迎える。本能寺向かいの自邸にいた貞勝は、子の貞成・清次とともに信長の嫡男・織田信忠の宿所・妙覚寺に駆け込んで変を伝える。

 

 その後、信忠らとともに二条新御所に移明智光秀勢に抗したが、信忠や子らとともに討死した。

 

 

以下、現地案内板より

 

安土城天主台跡

 

 安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582)6月に焼失してしまいます。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれてしまいました。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15年(1940)のことです。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が見事に現れました。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっています。

 安土城天主は、記録から地上六階・地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかりま す。これ以降、全国に建てられる、高層の天守の出発点がこの安土城天主だったのです。

 皆様が立っておられる場所は、地下一階部分ですが、天主台の広さは、これよりはるかに大きく二倍半近くありました。現在では石垣上部の崩壊が激しく、その規模を目で確かめることができません。左の図は、建設当時の天主台を復原したものです。その規模の雄大さを想像してください。

 

「安土山御天主の次第」〜『信長公記』(奥野高広・岩沢愿彦校注の角川文庫版による)

 

石くらの高さ十二間なり。石くらの内を土蔵に用ひ、是より七重なり。 

二重石くらの上、広さ北南へ廿間、西東へ十七間、高さ十六間ま中有り。 

 柱数弐百四本立。本柱長さ八間、ふとさ一尺五寸。 

 六寸四方、一尺三寸四方木 。

 御座敷の内、悉く布を着せ黒漆なり、(中略)三重め、十二畳敷、花島の御絵あり。則、花鳥の間と申すなり。(中略)柱数百四十六本立なり。

四重め、西十二間に岩に色々木を遊ばされ、則、岩の間と申すなり。(中略)柱数九十三本立。

五重め、御絵はなし。(中略)こ屋の段と申すなり。

六重め、八角四方あり。外柱は朱なり、内柱は皆なり (中略)

上七重め、三間方、御座敷の内皆金なり。そとがは是又金なり。(下略)

 

 安土城跡は、国の特別史跡に指定されています。指定地内では、許可無く史跡の現状を変更することは禁じられています。違反した者は、法により厳しく罰せられます。ご来訪いただきました皆様方には、何かとご不便をおかけすることもあろうかと思いますが、貴重な文化遺産である特別史跡の持つ意義をご理解いただき、皆様とともにこの安土城跡を守り伝えられますよう、ご協力をお願いいたします。

 また、特別史跡安土城跡のある安士山全体は民有地です。所有者の御好意により一般に公開されています。その趣旨を理解の上、禁煙等火気使用の厳禁、ゴミの持ち帰り等に御協力下さるようお願いします。

 

 

本丸跡

 

 天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきました。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸・帯郭・三の丸の各石垣で囲まれ、南方に向かってのみ展望が開けています。昭和16 年と平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34m×南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石が発見されました。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸 (約36cm)の柱跡が残るものもありました。4〜6寸 (12~18cm)の柱を6尺5寸 (約1.97m)間隔で立てる当時の武家住宅に比べて、本丸建物の規模と構造の特異性がうかがえます。

 礎石の配列状況から、中庭をはさんで3棟に分かれると考えられるこの建物は、天皇の住まいである内裏清涼殿と非常によく似ていることが分かりました。豊臣秀吉が天正19年(1591)に造営した内裏の清涼殿等を参考にして復原したのが右の図です。西方の清涼殿風の建物は、密に建ち並んだ太くて高い床束が一階の床を支える高床構造の建物であったと考えられます。大手道を行く人々は、天主脇にそそり立つその姿を正面に仰ぎ見ながら登ったことでしょう。

 なぜ、安土城天主の直下に清涼殿に酷似した建物が建てられていたのでしょうか。 『信長公記』には天主近くに「一天の君・万乗の主の御座御殿」である「御幸の御間」と呼ばれる建物があり、内に「皇居の間」が設けられていたことを記しています。信長の二度にわたる安土城への天皇行幸計画は実現しませんでしたが、この本丸建物こそ、天皇行幸のために信長が用意した行幸御殿だったのではないでしょうか。

 

 

黒金門跡

 

 ここは、安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門の跡です。周囲の石垣をこれまで見てきた石塁や郭の石垣と比べると、使われている石の大きさに驚かれることでしょう。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かりました。多量の焼けた瓦の中には、菊紋・桐紋等の金箔瓦も含まれていました。壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安土城のまさに中枢部となります。

 高く聳える天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこの一帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにあります。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立しています。高石垣の裾を幅2〜6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれています。外周路の要所には、隅櫓・櫓門等で守られた入り口が数カ所設けられています。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口道・七曲口道からの入り口 なのです。

 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失したため、炎の凄まじさを残す石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけです。しかし、400年以上にわたって崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた石垣の構築技術の高さに驚かされます。様々な表情を見せる安土城の石垣のすばらしさをご鑑賞下さい。

 平成7〜12年度の発掘調査から、この一帯の建物群が多層的に結合されている可能性が出てきました。ここから天主に至る通路や天主から八角平への通路の上には覆い被さるように建物が建ち並び、当時の人々は地下通路を通って天主へ向かうような感を覚えたのではないでしょうか。