①大手道
②伝徳川家康邸石垣
③黒金門カラ二の丸へ
④本丸石垣
⑤天主台
⑥天主台入口
訪問日:1994年5月
所在地:滋賀県近江八幡市(旧蒲生郡安土町)
写真は94年当時のもので古く、恐らく現状とは異なっていると思う。
本能寺の変の後の安土城の動静は、大体以下の通り
6月2日 本能寺の変、瀬田城主の山岡景隆、明智光秀の誘いを蹴り、瀬田橋を落として抵抗
6月3日 蒲生賢秀が信長の遺族を自身の居城である日野城に移す
6月5日 光秀が瀬田橋を修理し、安土城に入り、明智方が近江を制圧
6月6日 朝廷、安土城の光秀へ勅使派遣を決議
6月7日 吉田兼和が勅使として安土城に入り光秀と対面
6月8日 光秀、安土城に明智秀満を残し坂本城に移る
6月9日 光秀上洛し、公家衆らの出迎えを受け、吉田兼和の供応を受ける
6月13日 山崎の合戦
6月14日 明智秀満が安土城を退去、15日にかけ織田信雄が入城
6月15日 安土城天主が焼失
6月16日 織田信雄、信孝、羽柴秀吉が安土城で会見
6月27日 清洲会議、三法師を織田家後継と定め、安土城を相続するが信孝により岐阜に留め置かれる
明智光秀の謀反は、信長父子を殺害するまでは完璧だったが、その後光秀を支持した者は武田元明、京極高次といった衰弱した旧守護家くらいで、縁戚関係にあった筒井順慶や細川藤孝の支持は得られず、織田家一族で娘婿の織田信澄は早々に討ち取られてしまった。謀反という性格上、前もって内々に根回しができなかったのは当然だが、畿内ではもっと多くの支持が得ることができるはずと思っていたであろうことと秀吉の迅速な行動が光秀の計算違いだったのだろう。実際、秀吉以外の重臣たちは各方面の情勢の悪化に撤退をするのが精いっぱいで、その間に長宗我部はもちろん、毛利、上杉、北条らと連携することができれば光秀にも十分勝機はあったと思う。