①城跡碑
②復元石垣
③復元石垣
④復元石垣
訪問日:2004年11月(①②) 2012年12月(③④)
所在地:京都市中京区
二条新御殿と混同されがちなのが信長が足利義昭のために築いた旧二条城である。この城は永禄12年の新年早々に本圀寺を居所としていた義昭が三好三人衆らに襲われたことから、防御性の高い天主を備えた城郭を足利義輝が永禄8年に築いた二条御所武衛陣構の跡地に構築したものである。
しかし、義昭と信長の関係が破綻し、義昭が京都から追放されると、天正4年信長はこの二条城を解体し、築城中の安土城へと運ばせた。
以下、現地案内板より
推定旧二条城の復元石垣
京都御苑の一隅を含むこの地に一つの城跡が発見された。それは永禄十二年(1569年)織田信長が、室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定される。
当時、イエズス会の布教活動をしていたポルトガルの宣教師ルイス‐フロイスは度々工事場を訪れて築城の様子を見聞し、その記録が残されている。
この築城工事には日々一万五千人から二万五千人の人役が従事し、居館とする建築物は、法華宗本山であった「本国寺」の荘厳・華麗なものを選び解体し、調度品とともに運び再建した。
ここにある石垣は、地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で丸太町上るに埋れていたのを発見したもので、もとは南面していたのを、ここに復元したのである。
これと同様なものが烏丸線木町通・下立売通・出水通で発見されており、今も地下に埋もれているのである。
1980年 京都市
旧二条城
永禄12年(1569年)に織田信長が、第15代将軍・足利義昭の将軍座所(居城)として、この石碑を中心に、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で、二重の堀や三重の「天主」を備えた堅固な城を築いた。周辺からは金箔瓦も発掘されており、急ごしらえにしては、四方に石垣を高く築き、内装は金銀をちりばめ、庭は泉水・築山が構えられた豪華な城郭であったと推測される。(ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスの記録等より)その後、信長は旧二条城から義昭を追放し、東宮誠仁親王を迎え入れ、城は「二条御所」として使われていたが、室町幕府の滅亡に伴い廃城となった。天正4年(1576年)に旧二条城は解体され、安土城築城に際し建築資材として再利用された。現在の二条城は、徳川家康によって上洛の際の将軍の居館として慶長7年(1602年)に築かれた。
所在地:京都市上京区烏丸下立売
築城者:織田信長
形式 :平城
築城年:1569年(永禄12年)
学校法人 平安女学院
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