摂津 大塚城②(茶臼山陣城) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①茶臼山と河底池②河底池③史跡碑④茶臼山⑤あべのハルカス⑥茶臼山山頂

 

訪問日:2024年6月

 

所在地:大阪市天王寺区

 

 大坂冬の陣で徳川家康が、夏の陣では真田信繁が陣を布いた茶臼山は、それ以前にも「大塚城」として、攻防の舞台となったことがあった。

 

 永正4年(1507)に暗殺された細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争いは、享禄4年(1531)澄元の子・細川晴元が天王寺の戦い(大物崩れ)で高国を敗死させ、終結するかに見えた。

 

 天文5年(1536)には、高国派に擁立された高国の弟・細川晴国(1516-36)を天王寺で自害に追い込み、晴元は、天文6年(1537)管領に就任した(?)が、高国派の抵抗は続く。

 

 天文12年(1543)には高国の養子・細川氏綱が和泉国で挙兵、しばらくは不利な状況が続くが、天文15年(1546)8月には河内守護代・遊佐長教と結び、晴元の本拠・堺を攻める。

 

 晴元は重臣・三好範長(長慶)を援軍として堺に派遣するが、氏綱・長教の大軍に包囲され、8月20日堺の会合衆の仲介により、和議を結んで越水城に撤退してしまう。

 

 勢いに乗った氏綱・長教軍は、和泉や河内の国衆を糾合して摂津に進攻、9月3日には山中又三郎が守る大塚城を包囲する。命を受けた範長らが再び援軍として派遣される。

 

 しかし、池田城主・池田信正、三宅城主・三宅国村といった摂津の国衆が氏綱に帰参したため、範長は大塚城の救援を断念し、四国の三好実休ら一族の集結を待ったため、9月4日に大塚城は落城した。

 

 氏綱は9月13日に上洛を果たし、14日には嵯峨に逃れた晴元を長教らが攻め、15日には三好政長が救援に駆けつけるも、不利を悟って16日、ともに丹波へ逃れていった。

 

 京都を制圧し、将軍・足利義晴の支持も得た氏綱は、芥川孫十郎が守る晴元の拠点の一つ・摂津芥川城を攻めた。政長が救援に赴くも、9月18日、孫十郎は降伏開城する。

 

 巻き返しを期す晴元は丹波を出て、摂津神呪寺城を経て、11月13日に範長の越水城に移動し、三好実休・安宅冬康・十河一存の三好一族の援軍2万兵と軍船500も摂津に集結する。

 

 

以下、現地案内板より

 

茶臼山古戦場跡

 

慶長20年5月7日[1615年5月7日]、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大坂夏の陣 天王寺口の戦い)

数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。

 

ー真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由― 「薩藩日記」

 

 

(慶長20年5月7日はグレゴリオ暦では1615年6月3日)