河内 三箇城②(三箇菅原神社) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①三箇菅原神社②神社境内③城跡碑④水月院跡⑤水月院跡墓石⑥深野池絵図より

 

訪問日:2024年5月

 

所在地:大阪府大東市

 

 三箇頼照(白井伯耆守)の出自は不明だが、大和国宇智郡の三箇城主・三箇氏の一族で、河内守護・畠山氏に従って河内に移ったものと考えられている。

 

 河内三箇城主となった頼照は、永禄6年(1563)、主君・三好長慶の居城である飯盛山城で、日本人イエズス会員・ロレンソ了斎の説教を聞き感銘を受けた。

 

 その場には、大和沢城主・高山友照(右近の父)の姿もあった。翌永禄7年(1564)頼照は、司祭・ヴィレラを招いて妻・ルシアとともにキリシタンに改宗し、洗礼名をサンチョといった。

 

 河内では他にも田原城主・田原礼幡(レイマン)、八尾城主・池田教正(シメアン)、岡山城主・結城如安(ジョアン)らが洗礼を受けている。同年、長慶が死去すると後継者の三好義継に仕えた。

 

 永禄8年(1565)将軍・足利義輝を殺害した三好党により京都を追放されたヴィレラやフロイスを保護している。頼照もまた義継に改宗を命令を拒否して一時三箇を離れ、堺に逃れている。

 

 天正元年(1573)義継が本拠・若江城を織田信長に攻められて自害すると、頼照は信長に所領を安堵されて佐久間信盛の与力となり、対石山本願寺戦の前線に立った。

 

 河内三箇には1500人のキリシタンが暮らしていたという。その教会は五畿内で最も大にして美麗と称えられた。その聖堂は「角堂」と呼ばれ、住道(すみのどう)地名の由来とされる。

 

 天正5年(1577)キリスト教嫌いの多羅尾常陸介に讒訴され近江永原に幽閉されるが、信盛の取りなしによって赦され、家督を嫡子・頼連(マンショ)に譲り、信仰に専念する。

 

 天正10年(1582)本能寺の変に頼連は明智光秀に与し、山崎の合戦に敗れ、筒井定次を頼り大和に落ち延びた。三箇の城は落ち、教会は焼き払われ、三箇の町は廃墟と化した。

 

 頼連は浪人した後にキリシタンである小西行長に仕えるが、関ヶ原の戦いに敗れた行長は滅亡し、頼連の消息は不明となる。子孫は信仰を捨てて備後福山藩水野氏に仕えたという。

 

 一方で、頼照の孫(頼連弟・頼遠の子)の三箇頼成(マティアス)は信仰を捨てず、江戸幕府による禁教令にも従わず、慶長19年(1614)高山右近らとともに国外追放となり、翌年マニラで43歳の生涯を終えた。

 

 そして頼成の兄・三箇頼稙(アントニオ)は元和8年(1622)長崎で妻・マグダレナら信者55名とともに殉教を遂げた。享年55、元和の大殉教として知られている。

 

 

以下、現地案内板より

 

菅原神社(三箇)

 

 祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は10月19・20日。社地内には稲荷社 が鎮座する。天神さんも、お稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊饒の神である。

 住道地区の氏神で、延宝7年(1679)「三箇村検地帳」には「氏神天満宮」と記され、境内地十八歩の年貢が免除されていた。また江戸中期頃の当社は梁間五尺五寸、桁行一間二尺の社殿をもち、西の隣接地には曹洞宗宇治興聖寺末・水月院があった。現在も墓石が残存し、江戸時代までの神仏習合の面影を残している。

 社宝として神刀がまつられる。これは神威の高揚を願って、宝永年間の氏子たちが奉献したものである。相州綱廣の銘あり。往時の秋祭りには西の口、江の口南、江の口北、大箇、下野、押廻からの地車 (ダンジリ))計6台が引き出され社頭に並んだ。この宮入の順番は、18日くじ引きで決められる。また当地は16世紀半ば頃飯盛城の支城・三箇城のあったところとされている。

 城主三箇殿は永禄5年キリシタンとなりサンチョと称す。この時以来三箇の名は異国文書に登場する。城の位 置については諸説あって断定し難い。

 なお、水月院跡には「城ハ灰 埋は土となるものを何を此代に思ひ残さん」の辞世句を記す墓石も見いだされる。

 

平成5年12月 大東市教育委員会

 

 

住道駅前の案内板より

 

三箇城と三箇キリシタン

 

 16世紀後半の戦国時代、大東市の平野部には湖のような大池 (深野池)があり、三箇の地は、南北に連なる三つの島に分かれていたとされている。その島の一つに築かれた三箇城は水運の要所であり戦略的に重要な城であった。城守頼照(三箇サンチョ)は、飯盛城を居城として五畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)を制圧した三好長慶の重臣であり、永禄7年(1564年)飯盛城で洗礼を受け熱心なキリシタンとなった。

 宣教師ルイス・フロイスがローマへ宛てた書簡には、サンチョは「善良、高潔、賢明で真の父のような人」 「日本の教会が五畿内地方で有する最も賢固な柱石の一人」と高く評価されている。また、書簡には城とは別の島に聖堂を建て、「湖上の聖堂で15年の間、復活祭と降誕祭が祝われた」こと、彼の家族や家臣も皆熱心な信者となり、ある時は各地から参集した司祭や信者達を饗応し、胡弓の伴奏で賛美歌を歌い、またある時は大小90隻以上の船を浮かべ魚を獲り、キリシタン劇を上演し、盛大に復活祭を祝ったこと、信者、見物人ら約3000もの人が集まり五畿内で一番大きく綺麗であったことも記されている。このように三箇城と三箇キリシタンは、遠くヨーロッパまで知れ渡っていた。

 大正8年、大阪府の調査により、三箇6丁目に「三箇城址」の石碑が建てられた。現在、石碑は三箇5丁目の菅原神社前へ移設されているが、三箇城の正確な位置はまだ確定したものではない。

 上の絵は、当時の深野池と三箇の島を描いた想像図で、教会や聖堂が建ち、遠くに描かれている山が、飯盛城のある飯盛山である。住道駅構内にある陶板壁画はこの絵を基に制作されたものである。

 

平成30年7月 大東市教育委員会