①淀川天神社社殿②淀川天神社鳥居③正徳寺全景④正徳寺境内⑤正徳寺山門⑥ガス爆発事故慰霊碑
訪問日:2024年4月
所在地:大阪市北区
黄檗宗・正徳寺の一見してお寺には見えないこの建物になった経緯や、それ以前はどのような姿だったのかを知りたかったが、残念ながら現地でもネットでもたどり着くことはできなかった。
正徳寺は、承応3年(1654)黄檗宗の開祖・隠元隆琦(1592-1673)に従って来日した大眉性善(1616-73)の弟子である覚翁が再建した寺院で、明治の神仏分離までは道路向かいの淀川天神社の神宮寺でもあった。
江戸時代前期、中国では明(1368-1644)の滅亡が近づき、動乱から逃れて多くの中国人が長崎に在留していた。彼らは1624年から29年にかけ長崎三福寺(興福寺・福済寺・崇福寺)を建立する。
隠元は彼らの度重なる招請により、承応3年(1654)3年間という約束で長崎に入るが、その高徳を慕う臨済宗の龍渓性潜に請われて摂津普門寺に入り、万治元年(1658)将軍・徳川家綱と会見する。
万治3年(1660)隠元は山城国宇治郡に寺地を与えられ、日本に留まることを決意、寛文元年(1661)黄檗山萬福寺が開創され、延宝7年(1679)までに明様式の伽藍が完成した。
黄檗宗の教義や修行などは日本の臨済宗と同様とされ、隠元自身も臨済正宗を名乗ったが、現在も黄檗宗の読経は「黄檗唐韻」と呼ばれる近世中国語の発音で行われているそうだ。
黄檗宗は幕府の外護や諸大名の支援を得て、萬福寺の塔頭は33ヶ院、正徳寺を含む末寺は1,043ヶ寺(延享2・1745)を数えたという。正徳寺のビルディングには萬福寺同様に三つ葉葵の寺紋が描かれている。
以下、石碑より
天神社由緒
当神社は天平拾年行基菩薩が此地巡鍚せられし際此地開拓の守護神として天穂日命を勧請し奉り
天神社と稱え民衆の幸福を祈念せられ爾来産土神として祭祀怠ることなく今日に至る
御祭神 天穂日命は天照皇大神の第二皇子にあたり末孫に有名な野見宿禰菅原道眞大江匡房出雲大社の千家等の諸家がある
例祭 17日 18日 秋祭10月24日 25日