①護国寺本堂
②本地堂
③仁王門
④賀集八幡神社本殿
⑤賀集八幡神社拝殿
⑥賀集八幡神社参道
訪問日:2024年3月
所在地:兵庫県南あわじ市
蜂須賀正鎮(のち忠鎮・忠英と改名)は、慶長16年(1611)阿波徳島藩初代藩主・蜂須賀至鎮の子として生まれた。母は信濃松本藩主・小笠原秀政の長女で、徳川家康の養女・敬台院(徳川信康の外孫)。
元和6年(1620)父が35歳で死去したため家督を継ぎ、祖父・蜂須賀家政が後見した。元和9年(1623)正式に元服し、寛永6年(1629)従姉妹にあたる小笠原忠脩の娘・繁姫(齢昭院)を正室とする。
寛永7年(1630)1万石の脇城(徳島県美馬市)代で家臣団筆頭の稲田示植を淡路由良城代に任じ、脇を直轄地とする。寛永8年(1631)淡路の政庁を洲本に移した。
同年、賀集八幡宮(淡路国府八幡宮)とその神宮寺(護国寺)を再興し、蜂須賀氏の菩提寺の一つとした。この頃は家政が健在なので、このあたりはその意思が働いた可能性も高い。
寛永10年(1633)海部郡内(一宮城・海部城)に7500石を領する江戸家老・益田長行が禁制を破り、山林の木を伐採して江戸で売ろうとしたことが発覚し、所領を召し上げて幽閉する。
寛永15年(1638)家政が81歳で死去する。その後、10年以上にわたり幽閉されていた長行がこれを怨み、正保2年(1645)までに、忠英が禁制を破って大船を建造し、切支丹の宗門改めを怠っていると幕府に訴えた。
幕府は正保3年(1646)評定所にて長行と徳島藩仕置家老・長谷川貞恒を対決させ、長行の訴えは虚偽であるとして身柄は忠英に預けられた。長行は間もなく死去、病死とも斬首されたともいう(海部騒動)。
慶安5年(1652)忠英は42歳で死去、長男・蜂須賀光隆が跡を継いだ。蜂須賀氏は明治まで徳島藩主として存続した。また明治の神仏分離により護国寺と賀集八幡宮は分離された。
以下、現地案内板より
国指定重要文化財
指定年月日 明治34年8月2日
種類 彫刻
名称 木造大日如来坐像
所有者及び管理者 護国寺
兵庫県指定文化財
指定年月日 令和2年5月13日
種類 名勝
名称 護国寺庭園
所有者及び管理者 護国寺
本地堂 平成8年4月再建
中央 阿弥陀如来坐像 平安時代後期の作
右 毘沙門天像 鎌倉時代の作
左 不動明王像 鎌倉時代の作
賀集八幡宮由緒
鎮座地 兵庫県三原郡南淡町賀集八幡宮ノ谷
御祭神 応神天皇 配祀 仁徳天皇 天照大神
当八幡宮は貞観2年(860)御神託を受けた奈良大安寺の僧行教が京都石清水八幡宮の御分霊を奉じて淡路に来島、建立したという由緒ある神社であります。石清水八幡宮の社殿を模し、壮麗輸奐の美を整えた当八幡宮は往昔隆盛を極めておりました。(伽藍古図は護国寺にて保存)その後室町時代暦応3年(1340)阿讃の領主細川師氏、兵を率いて来たり、淡路国守、宇原兵衛永真の軍と戦い田中川の合戦で大勝、その際、当八幡宮を祈願所として社殿を造営、爾来神馬、太刀、神田奉納が続けられました。
江戸時代に下り寛永8年(1631)阿波藩主、蜂須賀忠英は当八幡宮を崇め奉り、伽藍を改造、本殿、拝殿、摂末社に至るまで悉く再建。現在の諸建物はこの時のものであります。
昭和12年3月御由緒正しきを以って、県社に昇格し、古来皇室の崇敬も厚く、昭和54年11月には浩宮徳仁親王殿下の御参拝を賜った島内屈指の由緒ある大社として祭事絶ゆる事なく受け継がれ広く、八幡の八幡さんとして親しまれ現在に至っております。
御神徳 厄除
細川師氏、淡路入国の際、当八幡宮に参拝。御幣を切り鏑矢を神前に奉じ、折しも厄年であったため特に懇ろに祈願したところ、その鏑矢が敵将永真に命中し勝利を収めました。
そこで師氏は当八幡宮を深く信仰し、細川家代々の祈願所としました。その由来を受けて当八幡宮は厄除の神として崇敬を集め島内外より多くの厄年の参拝者を迎えております。
また五穀豊穣、交通安全、安産の御神徳あらたかなるものがあります。
建造物
本殿 三間社流造 寛永8年棟札あり 兵庫県指定重要文化財
拝殿 入母屋造 寛永8年 兵庫県指定重要文化財
主祭日
初詣 1月1日~3日、新しい年のはじめ本社に参拝し、一年の御守護を祈願するものであります。
厄除大祭 1月中初老、還暦、33歳の女子の無事健康を祈り厄除神事を行います。
例祭 4月第2日曜日各町内会の檀尻12台神輿2基が繰り出し、檀尻歌などを奉納します。参道をうめる満開の桜も見事な大祭です。
夏祭 7月30日湯立神事が奉納され、夜店も出て終日賑わうのであります。
七五三詣 11月15日前後に7歳、5歳、3歳の幼児のすこやかな成長を願って行う神事であります。
県指定文化財 八幡神社本殿及び拝殿
指定年月日 昭和49年3月22日
所有者・管理者 八幡神社
創立・沿革は明らかでないが、現在の本殿は寛永8年(1631年)藩主蜂須賀忠鎮によって建立されたものである。
本殿は約23㎡で、正面と両側面の三方に縁をめぐらし、両側面の縁は一段高くなっており、神社の縁構えとしては他に例をみない。建築様式は和様を基調とし、それに唐様を混用しているが、全体的にはよく調和がとれている。妻の笈形はこの地方独特の形式をもったもので特に珍しい。
拝殿の建立年代は不明であるが、細部の手法は江戸時代初期の特徴を示し、本殿に続いて造営されたとみられる。
平成2年11月 兵庫県教育委員会