播磨 藤田森城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①石碑②碑文③軍度山良勝禅寺④遠望

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:神戸市西区

 

 神戸市西区西部に位置する平野町のこの辺りは中村と称され、中世の荘園の中心的集落であったことによるといわれ、明治10年(1877)頃、南隣の上津橋と合わせて大字を構成した際に「中津」となった。

 

 明治22年(1889)町村制の施行により、中津村や福中村などの区域をもって明石郡平野村が発足、昭和22年(1947)神戸市垂水区に編入され、昭和57年(1982)分割により西区の一部となった。

 

 写真の石碑は、近年中村地区で圃場整備事業中に発掘されたという。藤田の森の城跡についての由緒を記したもので、近世末から近代に製作されたものと考えられている。

 

 それによると藤田森城は、清和源氏源頼親(満仲の次男・大和源氏の祖)の裔である藤田助之丞定治の城で、別所長治の要請で三木城に入り、天正8年(1580)の落城後、文禄元年(1592)相模国三浦郡で討死した。

 

 定治の子・藤田助太輔常治は帰農し、後に堂宇を建立して薬師如来を本尊としたという。定治が討死したという相模国の戦いは豊臣秀吉の小田原征伐を想像させるが、これは天正18年(1590)のことだ。

 

 播磨で藤田氏を調べてみると、中村からやや離れているが、毘沙門城(三木市吉川町)の藤田河内守広興という人物に行きついた。近郷同族の宗家であったという。

 

 広興は嫡子・右近とともに三木合戦で三木城に入り、その落城後は毘沙門城に戻って父子ともに自害したという。しかし広興の出自などはわからなかった。いずれ毘沙門城にも訪れてみよう。

 

 

以下、現地案内板より

 

 この石碑は藤田の森という城跡の由緒を記したものです

圃場整備の際に発掘されました。

 

 令和2年 藤田家 建立

 

藤田森碑 碑文

夫當森者藤田助之丞源定治之城跡也定治清和天皇後胤源満仲公二男信濃守源頼親之苗裔也曽領當所于時三木郡平山城主別所長治有故而與羽柴秀吉角闘頻請加勢因之雖趣向彼戦伐天正八年庚辰孟正十七平山逐曁落城也従斯蜂起逐歳無息焉定治向数所戦場屢樹軍功此時嫡男平太郎柔弱未達武勇所以託于家臣宇野彦兵衛自尋趣関東戦国文禄元壬辰苦戦當炎熱六月十八日於相州三浦郡卒矣傳聞其廟今尚存也平太郎聞父訃告彦兵衛云我不幸而早喪父自勢甚微也如今退武道大雖似屈辱先祖一端若錯則恐断藤田家系假令一身染泥土願不滅先祖系嗣彦亦云卑懐同之悦気溢面爾来倶為郷士主者家于遺跡北臣者居干遺跡南也平太後號助太輔常治尚追慕父恩愛粤営一宇安守本尊薬師如来以充考妣追薦到今森内有假山水跡永称藤田森曰可知矣