豊前 耶馬渓(競秀峰/青の洞門) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①競秀峰②競秀峰と山国川③禅海和尚の像④現在の洞門⑤禅海和尚手掘り隧道⑥山国川上流を望む

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:大分県中津市

 

 福原市九郎は、貞享4年(1687)または元禄4年(1691)、越後高田藩士の子として、江戸浅草に生まれた。福原氏の祖は高田の国人という。なお上杉謙信の家臣団から福原氏の名は見つけられなかった。

 

 市九郎は両親の死後出家し、正徳5年(1715)得度して真如庵禅海と称した。曹洞宗の法華経を66部書写し、日本全国66ヶ国の霊場に1部ずつ奉納して廻る「六十六部」として諸国を行脚した。

 

 豊前国羅漢寺(中津市本耶馬渓町)を参詣した際、山国川沿いの断崖に架けられた桟橋・青野渡で人馬がしばしば踏み外して命を落とすことを知り、「托鉢勧進による」隧道の掘削を思い立つ。

 

 享保15年(1730)中津藩主・奥平昌成の許可を得て掘削が始まり、周辺の村民や九州諸藩の領主の援助も得て、寛延3年(1750)第1期工事を完成させ、人4文、牛馬8文の通行料を徴収した。

 

 さらに歳月をかけ、宝暦13年(1763)高さ2丈、径3丈、長さ308歩の、30数年に及ぶ全ての工事を完成させた。当初は「樋田の刳抜」と呼ばれ、その後「青の洞門」と呼ばれるようになった。

 

 歌川広重の『六十余州名所図会』(制作1854-56)には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、豊前国の名所として描かれた。中津出身の福澤諭吉(1835-1901)は景観を守るため、洞門のある競秀峰の土地を買い取った。

 

 明治39年から40年(1906-07)にかけて、陸軍日出生台演習場(玖珠町・九重町・由布市・宇佐市)への輸送路整備のため、車両が通過できるよう大改修され、現在のような姿になっている。

 

 作家・菊池寛は、大正8年(1919)禅海の逸話をもとに『恩讐の彼方に』を発表した。なお主人公が独力で手掘りしたとか、かつての主殺しの罪滅ぼしのためなどのエピソードは菊池の創作である。

 

 

以下、現地案内板より

 

日本で最初の有料道路 「青の洞門」

 

 江戸時代に始まった灌漑用水路の建設によって山国川の水がせき止められ、この辺一帯は川の水位が上がりました。そのため通行人は競秀峰の岩壁に作られた鉄の鎖を命綱にして大変危険な道を通っていました。旅の途中に耶馬渓に立ち寄った禅海和尚は、この危険な道で人や馬が命を落とすのを見て心を痛め、享保20年(1735年)から自力で岩壁を掘り始めました。

 寛延3年(1750年)には第一次落成式が行われ、開通後には「人は4文(現在の貨幣価値で約70円)、牛馬は8文(現在の貨幣価値で約140円)」の通行料を徴収したという話が伝わっており、日本で最初の有料道路とも言われています。

 明和元年(1764)、約30年余りの時間を費やして全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門をついに完成させました。現存する数々の写真や資料から、明治時代中期には洞門上にそびえる「競秀峰」とともに、日本全国からたくさんの観光客が訪れる観光名所となっております。

 

中津市  寄贈 中津商工会議所

 

 

禅海和尚と青の洞門

 

 越後の人禅海和尚は、仏道修行のため回国行者となって諸国をめぐり、享保の頃この地にきた。

 たまたま、山国川ぞいの岩壁にかかる鎖渡の桟道で、踏みはずして墜死する惨事を目撃、仏道修行者として、この危難をとりのぞき、衆生救済の門を開かんものと大誓願を発し大岩壁にむかって鑿と槌をふるいはじめる。

 悲願30年、岩をも徹す禅海和尚の不動心は、ついに342mにおよぶ隧道を貫通させた。

 禅海和尚と青の洞門一競秀峰下にその偉業と芳名を千載に畄むると共に、万人をして、禅海和尚の心をもって世に処せんと、その心気を奮い立たせる永遠の師表である。

 

平成2年8月15日 本耶馬渓町