豊前 平田城 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①南台から立留りの景②南台北側石垣③南台北側石垣④南台切岸⑤南台から北台を望む⑥北台東側を望む

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:大分県中津市

 

 野仲氏の家臣・平田氏の城で、本来の名称は、白米城と書いて「まったけじょう」と訓むというが、何故「白米」という字を当てはめたのかを説明してくれるものには出会えなかった。

 

 栗山利安は、天文19年(1550)栗山善右衛門(浄順)の子として、播磨国栗山(姫路市)に生まれ、永禄8年(1565)当時、御着城主・小寺政職の近習であった黒田官兵衛孝高に仕えた。

 

 永禄12年(1569)黒田氏と赤松政秀の青山・土器山の戦いでの戦功により83石の家禄を与えられ、天正7年(1579)には、前年から荒木村重により有岡城に幽閉されていた孝高を救出した。

 

 天正8年(1580)別所氏の三木城と、孝高を捨ててこれに与した御着城も落城し、孝高が羽柴秀吉から播磨国揖東郡(姫路市網干周辺)に1万石を与えられると、利安も200石に加増される。

 

 さらに秀吉による九州征伐の後の天正15年(1587)に孝高が豊前馬ヶ岳城(同年中津城を築城)に12万石を与えられると、利安も一気に6千石に加増され、平田城代となった。

 

 文禄2年(1593)孝高隠居後もその子・黒田長政に仕え、朝鮮出兵では同年の第二次晋州城攻防戦で功を挙げ、慶長3年(1598)帰国し、宇佐神宮の造営に携わる。

 

 慶長5年(1600)会津征伐に参陣、関ヶ原の戦いでは、中津城に残った如水(孝高)とともに東軍として豊後へ出兵し、大友義統との石垣原の戦いで功を挙げる。

 

 長政が筑前に移封され、福岡藩52万石の初代藩主となると、利安は朝倉郡1万5千石に加増され、麻底良城代となった。また天正19年(1591)平田城で生まれた嫡男・利章(大膳)にも3300石が与えられた。

 

 黒田二十四騎・黒田八虎の一人で、黒田氏の筆頭家老であった。元和3年(1617)利章に家督を譲り、元和9年(1623)長政の死去を機に隠居して一葉斎卜庵と号し、寛永8年(1631)82歳で死去した。

 

 利章は如水の姪を妻としたが、2代藩主・黒田忠之と対立し、寛永9年(1632)忠之の謀反の疑いを幕府に訴えたが、翌年の幕府の裁定により、乱心したとして盛岡藩預かりとなり(黒田騒動)、同地で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

平田城跡(中津市指定史跡)

 

 平田城は別名白米城(まつたけじょう)ともいい、建久年間に長岩城主野仲重房が築城したと伝えられています。天正年間には平田掃部介が城番として居城していました。

 天正15年(1587)、黒田官兵衛が豊前6郡を拝領し入国すると、野仲鎮兼はこれに反抗し家臣とともに長岩城に籠りました。黒田勢は長岩城を攻め落とし、官兵衛は戦功のあった栗山備後守利安に野仲氏の旧領6千石を与えました。

 栗山備後は平田城主となり、城を改修、現在もこの時築かれた石垣の一部が残っています。「黒田騒動」で名高い栗山大膳(栗山備後の長子)はこの城で少年期を過ごしています。

 

中津市教育委員会

 

 

平田城

 

 中津市耶馬渓町大字平田に所在します。城は平田集落を見下ろす標高117mの台地先端部にあります。台地は浅い谷によって南北に区切られ、南台の斜面と忠霊塔参拝道の一部に石垣があります。一方、谷を挟んだ北台には複数の曲輪があり、一部に南台と同時期の石垣が構築されています。曲輪(くるわ)には井戸跡とおぼしき穴もあります。

 

 この城は、別名「白米城(まつたけじょう)」と呼ばれます(子字「町丈」に由来か)。もともと在地領主・野仲氏の家臣・平田氏の城でしたが、天正15年頃黒田勢に攻撃され落城。黒田官兵衛は耶馬渓6000石を重臣栗山利安に与えました。中津市教委による中近世城館確認調査では、石垣の構築時期は黒田官兵衛の豊前入部後と推測しています。官兵衛・栗山氏によって、平田城は石垣造りの城の改修された様子です。