紀伊 和佐王子 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①和佐王子碑②和佐王子跡③和佐大八郎の墓④熊野古道⑤歓喜寺⑥紀伊国名所図絵

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 京都蓮華王院(三十三間堂)の通し矢は、その本堂西側の軒下(長さ約121m)を南から北へ矢を射通す競技で、保元の乱(1156)の頃に始まるとされ、天正年間(1573-92)頃から流行したとされる。

 

 明確な記録が残るのは、慶長11年(1606)尾張清洲藩主・松平忠吉の家臣で日置流(道雪派とも竹林派とも)の朝岡平兵衛が、100本中51本を射通し、天下一の称号を得たという。

 

 その後、暮六つ(午後6時頃)から翌日の暮六つまでの一昼夜、射通した矢数を競う「大矢数」が流行し、寛永年間(1624-44)以降は尾張藩と紀州藩の一騎討ちの様相を呈した。

 

 尾張藩士の星野茂則(勘左衛門1642-96)は、寛文2年(1662)大矢数に挑み、10,025本中6,666本を射通し、紀州藩士・吉見台右衛門の記録を破り、功により500石の弓頭に任ぜられた。

 

 寛文8年(1668)には、紀州藩士・葛西園右衛門が9,000本中7,077本を射通して記録を更新するものの、寛文9年(1669)には、星野が10,542本中8,000本を射通し、再度天下一となり、300石加増された。

 

 和佐範遠(大八郎)は、寛文3年(1663)紀州藩士で紀州竹林派の和佐実延の子として生まれた。前述の同派・吉見台右衛門(法名・順正)に師事し、その技量により藩から稽古料を給された。

 

 貞享3年(1686)大矢数に挑み、13,053本中8,133本を射通して17年ぶりに記録を更新した。功により300石に加増された。貞享5年(1688)には藩主・徳川綱教附の射手役となり、200石を加増される。

 

 元禄2年(1689)順正から印可を授かり、元禄8年(1695)には頭役並となるが、宝永6年(1709)さる事により田辺城に幽閉となり、正徳3年(1713)田辺城内長ヶ蔵で死去した(51歳)。

 

 和佐家はその後も弓術師範役として存続した。大八郎の記録はその後も破られることはなく、明治以降通し矢はほとんど行われなくなったが、三十三間堂では現在も「大的全国大会」(距離60m)が開催されている。

 

 なお、三十三間堂での通し矢の流行を受け、寛永20年(1643)には江戸浅草に江戸三十三間堂が落成した。元禄11年(1698)焼失し、元禄14年(1701)富岡八幡宮東側に再建されたが、明治5年(1872)破却された。

 

 

以下、現地案内板より

 

和佐王子

 

 後鳥羽上皇や修明門院(後鳥羽上皇妃、順徳天皇母)の熊野御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、吐前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子や次の平緒(平尾)王子には参拝していません。しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子に参拝したものと思われます。江戸時代初期には、二社の和佐王子跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子跡です。紀州藩主徳川頼宣は、寛文年間(1661~72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四字を刻んだ碑を建てています。『紀伊続風土記』には、川端王子を和佐王子と称し、この王子は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。この王子は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。

 

和歌山市

 

(和歌山城展示より)

三十三間堂の通し矢

 

 大矢数・・・午後6時から始めて、翌日の日暮れまで行い、矢を通す記録を競う。

 

 その当時の最高記録は、寛文9年81669)尾張家の星野勘左衛門が総矢数10,542本のうち、8,000本を通したというものであった。その記録を17年ぶりに破ったのが、和佐大八郎範遠である。貞享3年(1686)4月27日、24歳であった。総矢数13,053本で、通した数は8,133本(丸一昼夜、1分間に約9本の矢を放ち続けたことになる)。17年ぶりの新記録を出した和佐大八郎範遠には、京都で祝宴会が盛大に催され、紀州藩2代藩主徳川光貞は、現在の八軒屋まで、じきじきの出迎えをしたといわれる。そして、300石の褒美を賜っている。

 新記録を出した者は、「総一」「弓の天下」を称され、堂内に通し矢奉納額が掲げられた。その後も彼の記録は破られることなく、現在も三十三間堂に掲げられている。

 

 

歓喜寺(臨済宗)

 

 歓喜寺は、13世紀後半に建てられた密教系の寺院であったが、和佐荘内の薬徳寺に吸収された後、薬徳寺そのものが歓喜寺と呼ばれるようになった。

 この寺院は、熊野古道に近接するため、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、熊野詣の人々に便宜をはかる目的で接待所なる施設を設けていたことが知られる。また、多数残されている中世文書が和歌山県指定を受け、境内の柏槙の大木は天然記念物として和歌山市指定を受けている。

 

平成10年3月  和佐歴史研究会 和歌山市教育委員会