紀伊 中筋家住宅 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主屋②大広間③望山楼より内蔵など④庭園⑤北蔵と御成門⑥長屋門

 

訪問日:2024年3月

 

所在地:和歌山県和歌山市

 

 中筋家は、天正13年(1585)羽柴秀吉の根来攻めから逃れてきた文貞坊(初代)に始まるとされる。2代・孫太郎が中筋氏を称し、貞享4年(1687)4代・中筋良政が禰宜村の庄屋となる。

 

 寛延3年(1750)には5代・中筋良重が湯橋家に替わり和佐組の大庄屋となり、宝暦3年(1753)地士となった。以降10代・中筋良恭に至る明治初年まで、6代にわたり大庄屋を務める。

 

 寛政6年(1794)7代・中筋良永は前身となる屋敷を建てるが、8代・中筋良秘(1781-1857)の文政6年(1823)紀ノ川筋大干魃からの百姓一揆(こぶち騒動)で損傷を被る。

 

 良秘は天保5年(1834)屋敷の建て替えを計画し、天保8年(1837)長屋蔵の前身建物や北蔵が建てられ、天保13年(1842)には藩絵師・野際白雪(1773-1849)が筆をとり大広間の小襖の絵を描いた。

 

 嘉永5年(1852)から安政元年(1854)にかけて、和歌山城天守再建(1850)に携わったという大工の手により、民家では異例とも言える3階の望楼(望山楼)を伴う主屋が再建された。

 

 安政4年(1857)には望山楼で酒宴が催されたという。同年、良秘が死去、10代・良恭の時に明治維新を迎え、明治12年(1879)良恭は県会議員となっている。その後も屋敷の増築は続いた。

 

 

以下、現地案内板より

 

重要文化財  旧中筋家住宅

 

 旧中筋家住宅は、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代末期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

 旧中筋家住宅は、主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の附属建物が、昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されました。

 旧中筋家住宅は、戦後楫本重一氏の所有となり維持管理されてきましたが、和歌山市が管理団体となり、平成12年(2000)から平成22年まで約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年8月から一般公開しています。