紀伊 本願寺日高別院(日高御坊) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本堂②正門③太鼓楼④公孫樹⑤門前町

 

訪問日:2024年2月

 

所在地:和歌山県御坊市

 

 佐武(佐竹)義昌は、天文7年(1538)雑賀荘鷺ノ森を本拠とする湊の衆・佐竹允昌の子として生まれた。天文18年(1549)岡の衆との戦いで初陣を果たす。

 

 弘治元年(1555)までに根来寺の泉識坊傘下・福法院の行人(僧兵)となる。同年の福法院が属する蓮華谷と菩提谷の根来内の争いで往来左京(後に三好実休を討ち取る)と槍を合わせる。

 

 弘治2年(1556)には泉識坊と杉之坊が争い、福法院に押し寄せた杉之坊方を撃退する。同年の西谷との戦いにも参陣する。義昌は浄土真宗であり、まさに傭兵としての活動と思われる。

 

 弘治3年(1557)または4年(1558)には、雑賀中之島で和佐荘と岩橋荘の戦いが起き、鈴木孫一重秀とともに参陣、この戦いでは鉄砲を使用したという。

 

 永禄3年(1560)本山茂辰と長宗我部国親が争う土佐に渡り、両者から勧誘を受け、先に声をかけた本山氏に与するも、本山氏は長浜の戦い(長宗我部元親の初陣)で敗れたため引き揚げる。

 

 元亀元年(1570)三好三人衆方に加わり、織田信長方の河内古橋城(門真市)・摂津榎並城(城東区)・河内阿保城(松原市)攻めに参陣、さらに本願寺方として大海砦(場所不明)を守備し、中川清秀と戦う。

 

 元亀4年(1573)三好長治が阿波上桜城の篠原長房を討った戦いでは、雑賀衆の大将分の一人として参陣したといい、天正4年(1576)には天王寺の戦いでは的場昌長らとともに織田方の原田直政を討死させた。

 

 さらには新宮城の堀内氏善の招きで熊野に赴き、新鹿のち猪ノ鼻城を守備し、信長の次男・北畠具豊(織田信雄)が当主となった伊勢北畠氏と戦っている。

 

 天正5年(1577)羽柴秀吉ら織田勢が雑賀に押し寄せると、的場とともに小雑賀城を守備した。和睦後、人質となった孫一の息子を義昌は途中まで見送っている(天正13年説も)。

 

 天正13年(1585)秀吉の紀州征伐の際に吉原坊舎は焼失、その後、義昌は紀州を領した豊臣秀長のもとで、日高郡南部村や同山地荘の一揆討伐に参陣した。

 

 天正19年(1591)秀長が、文禄4年(1595)養子の豊臣秀保が死去すると、代官の桑山重晴のもとで焼失した吉原坊舎に替わる日高坊舎(後の日高別院)建造の奉行を務める。

 

 慶長6年(1601)和歌山藩主となった浅野幸長に仕え、82歳となった元和5年(1619)浅野家の広島転封に子の甚右衛門とともに従って紀州を離れた。

 

 その後まもなく義昌は死去、甚右衛門の家系は広島藩士として明治まで続いた。次男・源大夫や3男・左衛門は紀州に残り、紀州徳川家に仕えた。

 

 

以下、現地案内板より

 

本願寺日高別院の由来

 

 享禄元年(1528年)、摂津国江口で三好長慶に敗れた亀山城主湯川直光公は、山科本願寺の第10代宗主証如上人の助力を得て、小松原館に帰還できた。この報恩謝徳のため、天文年間 美浜町吉原に一宇を建立し、次男の湯川信春を出家させた。法名は後に証如上人より、佑存と授けられ、また、一私坊より変じ「吉原坊舎」の号が許された。 これが日高別院の開基となった。

 天正13年(1585年)豊臣秀吉の進攻によって亀山城、吉原坊舎は焼かれ、湯川一族はご本尊を守って熊野へのがれた。翌14年戦火もおさまり、佑存は日高に帰り、郡中僧俗と力をあわせて薗浦の椿原に仮堂「薗坊舎」を建てた。

 文禄4年(1595年)、直光公以来60余年、国主浅野家重臣、佐竹伊賀守の尽力によって、薗浦と島村の荒地を開いて「薗坊舎」をここに移し、「日高坊舎」の建立を見た。これが現在の「日高別院」である。この地に高く聳える寺院を、近在民は御坊様と尊崇したことから、その地名も御坊と呼ばれるようになった。今の「御坊市」の起源である。

 現在の別院の本堂は文政8年(1825年)3月15日に建立したものである。第10世賢了の時、当時の篤信家の喜多忠右衛門と津本所左衛門が協力して千両彩票をあがない、もし当ればこれを本堂の再建費に寄進しようと計画した。それがはからずも宿願がかない早速実行することとなった。二人は発起人となって各地に勧進募財し、また信者小竹佐兵衛の特別な寄進もあって、ついに坊舎の大再建は完成したのであった。様式は本山にならって総けやき造り、鐘楼と太鼓楼を左右にそなえ、本堂、書院、庫裏、経蔵、茶所、火番居所、など七堂伽藍を配している。

 明治10年9月、本山より別院の称号をうけ「本願寺日高別院」として現在におよんでいる。

 下川に囲まれた、日高別院を中心に町並みを形成し、西町・中町・東町に分かれ、特に東町は 現在でも 土蔵屋敷が多く残り、近世の町並みを顕著に残している。

 

 

和歌山県指定文化財

 天然記念物 日高別院の公孫樹

 指定 昭和33年4月1日

 

 イチョウは、各地の神社や寺院によく植えられていて、老巨木の立派なものが目につきます。

 この日高別院のイチョウの木は、胸高の幹回りが約4.6m、樹高約18mの立派な巨樹で、樹冠も相当大きく壮観です。

 文禄4年(1595年)、薗坊舎をこの地に移したときに植えられたものといわれており、樹齢は400年以上と考えられています。

 

平成25年3月

和歌山県教育委員会 御坊市教育委員会 日高別院