訪問日:2024年2月
所在地:和歌山県御坊市
城主とされる玉川義為は湯河氏の代官とされるが詳細は不明、紀伊国伊都郡玉川で晩年を暮らしたという南朝3代・長慶天皇の裔・玉川宮家とは関係ないだろう。戦国時代の野口は玉置氏の所領である。
また戦国時代の城主候補として、野口村安楽寺に伝わる文書から、野口殿と呼ばれた野口源久が挙げられている。玉置大宣より9代目の長直の舎弟・直知(直和か)の伯父だとされる。
源久は天正元年(1573)6月、大和風ヶ森で討死したという。織田信長と足利義昭の争いに関連するものか。嫡子・弥五右衛門は大和に落ち延び、高取に知行を与えられ、その子孫は播磨にあり、という。
一方で、信長の陣城とされる木本城との類似性(縄張や遺物の少なさなど)から、天正13年(1585)豊臣勢が湯河氏の亀山城を攻めた際、玉置氏領内に構えた陣城であった可能性も指摘されている。
野口城は日高川左岸の低丘陵上に位置する方形居館で、土塁や堀を残していたが、昭和56年(1981)新農業構造改善事業により削平された。事業に先立ち発掘調査が行われている。
以下、石碑より
中世の頃、北代官と呼ばれた野口殿こと玉川義為の居城地である。
空堀・土塁をめぐらし内側に主屋などの建物を配した当時の館城の形式が、昭和56年度の発掘調査により明らかとなった。
(題字 御坊市長 玉置修吾郎)
昭和58年3月建立
御坊市教育委員会