紀伊 手取城 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①西郭から主郭を望む②副郭から西郭を望む③副郭から主郭を望む④主郭石積⑤東郭群の土塁⑥北郭群の堀切

 

訪問日:2024年2月

 

所在地:和歌山県日高郡日高川町

 

 手取城主・玉置氏は、平重盛の次男・資盛の裔を称し、玉置神社(奈良県十津川村)の別当職であったという。南北朝時代、その一流の玉置直虎が北朝に与して鶴ヶ城(山地玉置氏)を築いた。

 

 さらにその一族の玉置大宣が日高川を下って和佐に進出し、山崎城の川上則秋を滅ぼして手取城(和佐玉置氏)を築いたという。戦国時代は亀山城主・湯河氏と並ぶ勢力となった。

 

 玉置直和は、湯河直春の娘を妻とし、室町幕府の奉公衆として紀伊・河内守護の畠山高政に与し、永禄5年(1562)三好長慶との教興寺の戦いに参戦したようだ。

 

 天正13年(1585)豊臣秀吉の紀州侵攻を前に、直春は抗戦を主張して直和に同調を求めたが、直和は秀吉への帰順を決意し、湯河氏の本拠・小松原に焼討を仕掛けるも劣勢となり手取城に籠る。

 

 直和は豊臣勢の仙石秀久や中村一氏の援軍を待ったが、直春の焼討を受けて落城、直和は落ち延びた。直春が豊臣勢と和睦すると、手取城は直和に返還され、紀州を領した豊臣秀長に仕える。

 

 しかし所領は1万石から3500石に減少した。直和は高野山に出家し、子の永直に家督を譲る。なお、豊臣勢に抵抗した山地玉置氏の鶴ヶ城は落城し、玉置盛重は自刃して山地玉置氏は没落した。

 

 永直は秀長没後、秀吉に直仕するが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで西軍に与して没落、慶長20年(1592)大阪の陣で大坂城に入る。紀州一揆でも暗躍していたようだ。

 

 なお同年には一族の玉置直秀(1560-1649)が弟・直宗とともに主家を去り、藤堂高虎に仕えている。永直は、元和5年(1619)和歌山藩主となった徳川頼宣に仕えた。

 

 ところで直和は瑞穂斎一咄と号する武野紹鴎門下の茶人でもあり、瑞穂流茶道の流祖となる。安政2年(1855)瑞穂流は和歌山の大火により大きなダメージを受けるが、再興されて現在に至る。

 

 

以下、現地案内板より

 

川辺町の文化財

 手取城跡 日高郡川辺町和佐

 

 手取城は、別所谷奥の城山(標高171m)の山上に築かれた本丸、東の丸、二の丸、西の丸、空堀などをもつ城址である。

 丸山城の湯川氏と並ぶ玉置氏は、累代この城に拠って、日高川沿岸の諸村、1万数千石を領した。

 天正13年(1585)秀吉の紀州進攻の際に落城したが、その規模は極めて大きく(東西500m、南北150m)、遺構の保存状態も良いことから、中世城郭として極めて高く評価されている。

 

川辺町教育委員会

 

 

ここ手取城址は 玉置氏居城の跡なり 鎌倉の末期玉置大宣 熊野よりこの地に来たり 山城を構築して本拠となし 三津の川 田尻 雄山に支城を配す 以来十代弐百有余年 勢威を近郷に振ひ 壹萬数千石を領有す しかるに天正拾参年 豊公南征の砌 亀山城主湯川直春の軍を 會の瀬に迎戦せしも戦利あらず ついに落城す 時に城主 玉置権之守直和のがれて 高野山に登り 剃髪染衣して 仙光院と称し佛道を行す また 瑞穂齋一咄と號して茶道を修し ついに瑞穂流第一祖となる

いま往時を回顧して うたた感慨に堪へず ここに建碑して顕彰す

昭和五十一年三月 川辺町史跡顕彰會