摂津 住吉大社② | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①第二本宮②第二本宮③第三本宮④第三・第四本宮⑤御文庫⑥招魂社本殿

 

訪問日:2023年10月

 

所在地:大阪市住吉区

 

 寛成親王は、興国4年(1343)第97代(南朝2代)後村上天皇の第1皇子として生まれた。母は南朝の関白・二条師基の猶子・嘉喜門院(実父は関白・近衛経忠か)。

 

 南朝は史料の少なさからその生い立ちについては不明な点が多いが、南朝では親王任国制が取られ、陸奥太守に任ぜられ、「陸奥親王」と呼ばれたらしい。立太子については不明である。

 

 後村上天皇は、足利政権側の内紛や楠木正儀の戦略が功を奏し、正平15年(延文5・1360)から崩御する正平23年(応安元・1368)3月まで、住吉社の宮司で南朝方の津守国量の住吉殿を行宮としていた。

 

 父の崩御により寛成親王が践祚(長慶天皇)したが、まもなく正儀が北朝に降伏したため同年12月には吉野に後退する。正平24年(応安2・1369)河内天野の金剛寺(河内長野市)に進出する。

 

 しかし、正儀に先導された北朝方の細川氏春・赤松光範の総攻撃を受け、四条隆俊が天皇を守って討死するなどしたため、またもや吉野に撤退する。天授5年(康暦元・1379)大和栄山寺に移る。

 

 弘和元年(永徳元・1381)叔父の宗良親王の私撰和歌集を准勅撰和歌集『新葉和歌集』として成稿、北朝方の勅撰和歌集に対抗した。同年には自ら『源氏物語』の注釈書『仙源抄』を著す。

 

 弘和2年(永徳2・1382)正儀が難聴に復帰。弘和3年(永徳3・1383)同母弟の東宮・熙成親王(後亀山天皇)に譲位した。これは正儀復帰により、和平派が穏健な後亀山天皇を擁立した可能性があるという。

 

 元中3年(至徳3・1386)までは院政を敷いていたようで、二見越後守宛の院宣が残る。元中9年(明徳3・1392)南北朝の合一が成立するも、京都に戻った形跡は見られないという。

 

 応永元年(1394)崩御するが、晩年の地は諸説あって不明である。そもそも在位していたかについても、徳川光圀らは在位説を唱えたが、新井白石らは非在位説を唱えた。

 

 明治44年(1911)明治天皇が南朝を正統とする直裁を下すも、在位認定されず、大正15年(1926)ようやく皇統加列の勅が発せられ、正式に98代天皇として公認された。

 

 

以下、現地案内板より

 

御文庫(おぶんこ)と呼ばれるこの土蔵造りの建物は、享保8(1723)年、書物を納める目的で創建された。施主は大坂を中心に京・江戸の書籍商たちである。この年、大坂の書籍商は排他的同業組合である株仲間の結成を公許されている。これを機に仲間の店が上梓した書籍の成功を祈念して住吉神前に奉納した。それ以降、明治6(1873)年の株仲間廃止まで、わずかな中断はあったものの奉納された書物は膨大な数に上る。和書漢籍・洋装凡を併せると1万点以上、数万冊に及び、研究者も注目する貴重書も多い。