河内 大杜御祖神社/高宮廃寺など | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①大杜御祖神社②高宮廃寺西塔跡③高宮廃寺東塔跡④高宮遺跡大型建物跡⑤高宮神社⑥秋玄寺十三仏板碑

 

訪問日:2023年10月

 

所在地:大阪府寝屋川市

 

 高宮村主は、大和国葛上郡高宮郷(御所市)を本拠とする、前漢6代皇帝・景帝(B.C.188-B.C.141)の子・魯恭王(劉余)の後裔を称した漢系渡来氏族である。

 

 『日本書紀』によると、人質の微叱許智伐旱の一時帰国のため、神功皇后の命で新羅に遣わされた葛城襲津彦が、対馬で人質に逃げられたため、新羅の草羅城を攻め、捕虜として漢人らを連れ帰った。

 

 葛城襲津彦は、彼らを葛城氏の勢力圏である高宮・忍海・佐廉・桑原の4邑に住まわせ、それぞれの村主の祖となったという。葛城には渡来系集団の存在がうかがえる集落遺跡が存在する。

 

 また『新撰姓氏録』(815年編纂)では、後漢12代皇帝・霊帝(156-189)の3世あるいは4世孫の阿智王(阿智使主)は、後漢の滅亡の際に朝鮮帯方郡に移住し、その後日本に渡来して15代・応神天皇に謁した。

 

 天皇は進んだ技術を持つ帯方郡の人々の帰化に同意して帯方郡に使者を派遣し、16代・仁徳天皇の時に日本に渡来した20の氏族の中に高宮村主・忍海村主・佐味村主・桑原村主もいたという。

 

 葛城氏を滅ぼした21代・雄略天皇は、これらの豪族に仕えていた渡来人らを阿智王の裔である東漢氏(倭漢直)や秦氏に編入して朝廷に直接隷属させた。高宮村主らも東漢氏に組み入れられる。

 

 高宮廃寺や高宮神社、大杜御祖神社は、その状況から高宮氏の氏寺・氏神であったと考えられ、その祭神は天剛風命およびその親神の天萬魂命で、高宮神主の祖だという(先代旧事本紀)。

 

 祖神が渡来系のイメージではないので、高宮神主は高宮村主とは無関係かも知れないが、隣に太秦という渡来系の地名もあり、この高宮神主も渡来系だったかもしれない。

 

 朝廷が、茨田堤の築造など、草香江(河内湖)周辺の開発のため、大陸の技術を持った東漢氏や、秦氏の人々を近隣に配置して、その技術を競わせていたような気がした。

 

 

以下、現地案内板より

 

国史跡 高宮廃寺跡

 

 高宮廃寺跡は、寝屋川市大字高宮に所在し、生駒山系の西麓香里丘陵の南端に位置しています。飛鳥時代おわり頃(白鳳時代)に創建され平安時代に一時廃絶したのち鎌倉時代に再建、室町時代にいたる間、法灯がともされた北河内屈指の寺院跡です。廃寺跡には、東塔の基壇・塔心礎・西塔の礎石等が見られ、また金堂の基壇・講堂の基壇・中門・回廊等が調査によって確認されています。

寺院伽藍の主要な建物跡からは、飛鳥時代おわり頃の蓮華文軒丸瓦などが出土しました。

寺域内に延喜式内社大社御祖神社があり、近くには延喜式内社髙宮神社があります。この両延喜式内社は「先代旧事本紀」にみえる高宮神主とその祖神を祭ったものであり、当廃寺はその二社氏寺氏神の関係にあったものと考えられます。

高宮廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営のあり方をうかがう上で重要な遺跡です。

 なお、当廃寺は、昭和55年(1980年)5月3日に国の史跡に指定を受けました。

 

文化庁 大阪府教育委員会 寝屋川市教育委員会

 

 

大杜御祖神社と高宮廃寺

 

 ここ大杜御祖神社は「式内社」で、市内に三社あるうちの一社です。式内社とは、平安時代につくられた『延喜式神名帳』に記載されている神社をいいます。

 祭神は、ここより北西約300mにある高宮神社の祭神である天萬魂命を祀り、『河内名所図会』には「此地の生土神」と紹介されています。江戸時代には、五穀豊穣を願った牛頭天王も祀られていました。

 また、この神社の境内には、東西に塔をもつ白鳳時代(7世紀後半)創建の古代寺院がありました。この寺院は、高宮の地名をとって「高宮廃寺」と呼ばれていますが、現在の社殿のところにその西塔があったと推定されます。

 次の図は、高宮廃寺の伽藍配置を示したものです。

 

寝屋川市

 

 

高宮遺跡

 

 高宮遺跡は、史跡高宮廃寺の西に広がる畑地で発見された丘陵上の遺跡です。この丘の上では、発掘調査によって縄文時代の土坑、飛鳥時代・白鳳時代の掘立柱建物跡、竪穴式住居跡などの遺構と、縄文時代前期末の土器、矢じりなどの石器類、古墳時代の須恵器の壺や甕・土師器・瓦などの遺物が発見されました。なかでも、およそ1300年前の飛鳥時代から白鳳時代に属する多数の掘立柱建物跡は長く続く柵列の内側に並び、柵列の外側には約4m四方の小さな竪穴式住居跡が並んでいた状況は、古代氏族の屋敷と庶民の住居がこの丘に広がっていたありさまを示しています。

 この丘の上に生活を営んだ古代氏族が、まもなく氏寺としての高宮廃寺(白鳳時代創建)を建立したものと思われます。

 また、丘の上で、平安時代の井戸が発見されています。井戸は、クスの木を「コ」の字形にくりぬいて組み合わせたもので、内部からは「保延六年」(1140年)の年号が読み取れる墨書銘をもつ桶も出土しています。

 この公園は、発掘調査で発見された最も立派な柱穴をもつ、南北6m、東西9mの掘立柱建物跡を保存したものです。

 

寝屋川市

 

 

高宮遺跡(古代の大型建物跡)

 

 古代寺院の高宮廃寺跡(国指定史跡)の南東側の丘陵上では、第二京阪道路建設に伴う財団法人大阪府文化財センターの発掘調査で、古墳時代中期(5世紀)~鎌倉時代(13世紀)の集落跡が見つかりました。

 特に、大きな柱穴をもつ古代の建物跡は、重要な遺構です。柱穴は一辺1m以上の巨大なもので、痕跡より直径50cm程度の柱が使用されていたと推定されます。床下にも柱がある構造で、高床の倉庫に復元できます。建物は、丘陵を造成した平坦部分に、東西方向に5棟並んで見つかりました。柱穴や周辺から出土した土器から、古代(奈良時代:8世紀)に建てられたと考えられます。

 高宮廃寺に隣接する位置にあることから、寺院あるいは寺を経営した古代豪族に関わる倉庫群とする意見や、この地域が含まれる古代の讃良郡の役所(郡衙)あるいは古代の高宮郷に関係する倉庫群とする意見があります。周辺では役人が身に付けた石製の帯飾りや、人面墨書土器・人形・斎串・絵馬といった都から多数出土するまじないに使われた道具がみつかっており、この地域が古代において重要な地域であったと考えられます。

 この遺構表示は、遺存状態の良い大型総柱建物4(写真中央の建物)を参考に、建物および柱の大きさを表現しました。

 

寝屋川市教育委員会

 

 

髙宮神社

 

 高宮には、ここ髙宮神社と南東300mに鎮座する大杜御祖神社の二つの神社があり、両社とも延喜式内社で、かつ親子関係の神社です。一つの村の中でこのような類例は稀有のものといえます。

 祭神は『先代旧事本紀』(平安時代)に、高宮神主たちの祖先と記載されている天剛風命(あめのこかぜのみこと)で、大杜御祖神社の祭神、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子神にあたります。

 江戸時代には、讃良郡内の一番の大宮として「一の宮」とも呼ばれていました。

 

寝屋川市

 

 

寝屋川市指定文化財 秋玄寺十三仏板碑

 

 ここ浄土宗一印山秋玄寺の十三仏板碑は、高さ114cm、上部の一番広いところで幅53cm、下部の台座に接するところで幅43cm、厚さ22cmあり、舟形の塔身部をもっています。市内に5基ある十三仏板碑のなかでは、最大のものです。

 十三仏板碑には、初七日の不動明王から三十三回忌の虚空蔵菩薩まで、仏事供養を司る十三の仏が刻まれています。下部には、「壽□ 道□ 道□ 道弥」の4名の戒名、左右の縁には「逆修□□□為也」、「永禄十三年 庚午 □月十三日」と文字が刻まれています。

 「逆修」とは、生前にあらかじめ死後の冥福を祈って仏事を行うことです。永禄13年は、西暦1570年にあたります。

 十三仏板碑は、14世紀(鎌倉時代から南北朝時代)に出現すると考えられ、室町時代に数多くつくられるようになります。大阪府内では48基が知られていますが、室町時代後期(16世紀)から江戸時代初頭(17世紀)につくられています。このうち、北河内地域には、18基が現存し、生駒山地東側の奈良県のものを合わせて生駒山系には約50基がみとめられます。

 

寝屋川市