遠江 初山 宝林寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①仏殿②一之拝門③方丈

 

訪問日:2015年1月

 

所在地:浜松市北区

 

 近藤康用(1517-88)は、菅沼忠久・鈴木重時とともに、永禄11年(1568)今川氏真から徳川家康に離反し、井伊谷三人衆と呼ばれ、天正12年(1584)井伊直政の配下につけられた。

 

 康用の子・近藤秀用(1547-1631)は、直政のもとを去り家康の勘気を蒙ったが、直政が死去した慶長7年(1602)徳川秀忠に仕え、上野国青柳に5000石を与えられた。

 

 秀用の長男・近藤季用(1573-1612)は同じ頃、父とは別に遠江金指1000石から同井伊谷3050石に加増された。近藤貞用は、慶長11年(1606)季用の長男として生まれた。

 

 江戸在住の駿府藩主・徳川頼宣に仕え、慶長17年(1612)父・季用の死去により家督を継ぐ。頼宣のもとで慶長19年(1614)大坂冬の陣に出陣する。

 

 元和5年(1619)頼宣の紀州移封に伴い紀伊に赴く。井伊谷には祖父・秀用が1万5000石(うち5000石を叔父・用可に分知)が入った。翌元和6年(1620)祖父に呼び戻され3140石(のち3350石)を分知される。

 

 祖父は元和7年(1621)2000石を加増され、寛永8年(1631)遺領8940石を残して85歳で死去すると、貞用はうち2220石を相続し、従来のものと合わせて5450石の交代寄合・金指近藤家の祖となった。

 

 その他、従弟の用将が5450石の井伊谷近藤家、用可の長男・近藤用行が2400石の大谷近藤家、次男・近藤用治が3900石の気賀近藤家、秀用の甥・近藤用尹が320石の花平近藤家の祖となった。

 

 貞用は書院番や百人組頭を務め、明暦3年(1657)明暦の大火での活躍が伝わり、町奴の頭領・幡随院長兵衛や旗本奴・水野成之らと渡りあう旗本として歌舞伎などにも登場する。

 

 また、中国福建省出身の日本黄檗宗の祖・隠元隆琦に帰依し、その日本残留に努め、法名「語石居士」を賜る。寛文2年(1662)山城国宇治に萬福寺を創建した際には100両を献じて竹林精舎を建立した。

 

 寛文4年(1664)には、隠元に従って来日した独湛性瑩を遠江に招き、寛文5年(1665)隠元を勧請開山、独湛を初代住持として、金指・気賀両近藤家の菩提寺である宝林寺を創建した。

 

 延宝5年(1675)井伊谷・花平の山境、金指と井伊谷の境界争いを裁定する。延宝7年(1679)宝林寺から西へ2km足らずの地に10年以上かけて築いた100間四方の新たな陣屋に移る。

 

 元禄9年(1696)金指陣屋にて91歳で死去、独湛により宝林寺に葬られる。嫡男・昌用はすでに亡く、嫡孫・近藤徳用が金指近藤家の跡を継いだ。

 

 

以下、現地案内板より

 

独湛禅師

 

 1628年中国福建省生まれ。黄檗宗開祖隠元禅師に従って来朝し、京都宇治にある黄檗山萬福寺の創建を助けた。

 1664年に近藤貞用公の招請に応じて初山宝林寺を創建し、この地の産業や文化の向上に努め黄檗禅は隆盛を極めた。

 18年間住職を務めた禅師は、黄檗山萬福寺の第4代住職となりこの地を後にした。

 1706年獅子林院にて入寂。