摂津 佳木山 太融寺 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①本堂・宝塔②本堂③八角堂④庭園⑤淀殿之墓⑥西門

 

訪問日:2023年5月

 

所在地:大阪市北区

 

 尊王攘夷運動の政治的主張には、記紀の記述や欧米列強との対抗を論拠とした朝鮮進出が唱えられていた。吉田松陰や橋本左内らもこれを主張していた。

 

 また尊王家で自由民権運動の主導者・板垣退助は「君主は民を本とし、君主主義と民本主義は対立せず、同一不可分」と説いており、日本の自由主義運動は愛国主義とも結びついて発展した。

 

 明治6年(1873)征韓論を主張して敗れた板垣らが下野し、明治7年(1874)1月、愛国公党を結成し、当時の立法府・左院に『民撰議員設立建白書』を提出する。

 

 これに名を連ねたのは板垣の他、古沢迂郎(高智県)岡本健三郎(高智県)小室信夫(名東県)由利公正(敦賀県)江藤新平(佐賀県)後藤象二郎(東京府)副島種臣であった。

 

 政府は時期尚早として反対し、板垣や片岡健吉は高知に帰郷して地方の政治結社・立志社を設立、江藤は同年2月の佐賀の乱に加わり活動を停止、愛国公党は自然消滅した。

 

 明治8年(1875)2月、大久保利通・木戸孝允らと大阪で会談(大阪会議)した板垣は愛国公党の再結集を呼びかけ、立志社を中心に西日本の士族層が参加して愛国社が結成された。

 

 同年3月、板垣は木戸とともに参議に復帰、4月には明治天皇より「立憲政体樹立の詔」を得るなどの成果を得たが、木戸との対立や江華島事件の処理を巡る対立により、10月には再び下野した。

 

 愛国社は、板垣の参議復帰や、明治10年(1877)西南戦争に西郷軍として参加した者も多く、またも自然消滅していたが、明治11年(1878)4月、立志社を中心に再建が決定される。

 

 同年5月、大久保利通が征韓論派らにより暗殺され、板垣にも決起を促す声があったが、言論による戦いを主張した。同年9月、西日本各県から13社の代表が集まり、愛国社再興会議が開催された。

 

 第2回は、明治12年(1879)3月から4月にかけて18県21社が集まり、11月に開催された第3回では、国会開設を目標とする全国運動を展開することが決定された。

 

 明治13年(1880)3月15日、第4回愛国社大会が大阪喜多福亭で始まり、2府22県から愛国社系以外も含む114人が参加、約8万7千筆の署名を集めた。19日には太融寺に会場を移し、4月8日まで続いた。

 

 そして愛国社と別組織の国会期成同盟の発足が決議され、大会は第1回国会期成同盟大会に衣替えした。政府は4月5日集会条例を制定して集会・結社の自由を規制し、運動を圧迫した。

 

 同年11月、第2回大会が東京で開かれ、2府22県から代表64人、約13万筆の署名が集まった。各々憲法私案を作成、持ち寄ることが決議され、また政党結成の提案が出されて同年12月に自由党準備会が発足した。

 

 明治14年(1881)10月、開拓使官有物払下げ事件の発覚の結果、第3回大会を前に即時国会開設を主張していた参議・大隈重信(後に立憲改進党を結成)が政府中枢から追放される。

 

 批判を恐れた政府は10月12日、国会開設の詔を発布、明治23年(1890)国会開設を決定した。78名が参加した第3回大会は10月18日に始まり、自由党創立大会に衣替えした。

 

 10月29日、盟約・規約、板垣を総理(党首)とするなどの人事などを定め、全国に組織を広げるも、弾圧や内紛を繰り返す悪循環となり、明治17年(1884)10月には大阪で解党大会が開かれることになる。

 

 

以下、現地案内板より

 

太融寺伽藍再建記念碑

 

 当山は嵯峨天皇勅願により弘仁年間弘法大師創建し給う浪華の名刹なり

爾来法灯千百五十余年連綿として興隆繁栄の一途を辿る

 然るに太平洋戦争の惨禍を蒙るや忽ちにして荒涼たる廃墟と化す 灰燼に皈す堂宇二十有五棟たり

 茲において当山有縁の檀信徒一致協力して伽藍再建の工を起す 維に昭和二十六年正月なり 併して今日に至るまで年々歳々旧観に復すべく関係者一同東奔西走あい聊か再建の初志を完遂するを得たり

 建つところの堂宇次の如し

本堂 不動堂 護摩堂 大師堂 弁天堂 鐘楼 本坊 庫裏 客殿 茶室 南門 西門 東門 北門 周回塀等なり

 依ってこの小碑を建て之が記念とす

 

昭和五十二年六月吉日 太融寺五十五世 恵光誌

 

 

淀の方(永禄10・1567~元和元・1615)

 豊臣秀吉の側室。浅井長政の長女。母は織田信長の妹お市の方。浅井氏の滅後、秀吉に養われ、天正17年淀城に入る。淀殿、淀の方とよばれた。淀君は後の俗称。秀頼を生み、秀吉没後は大坂城に拠り豊臣方の中心的人物となる。大坂夏の陣に敗戦、秀頼と共に自刃した。

 法名を大虞院英岩と寺伝にいう。明治10年城東鴫野より当寺に改葬された。