常陸 水戸城④(彰考館ほか) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①彰考館跡②弘道館医学館跡③水戸東武館④茨城県庁三の丸庁舎⑤水戸東照宮⑥偕楽園好文亭

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県水戸市

 

 水戸藩2代藩主・徳川光圀が寛文12年(1672)世子の頃に開設していた藩の修史局を江戸小石川藩邸に移転して「彰考館」(江館)と命名したのが始まりで、助さん・佐々介三郎も総裁を務めた。

 

 光圀隠居後の元禄10年(1697)格さん・安積覚兵衛らの史館員を水戸城内に移転させ、水戸彰考館(水館)が発足、光圀死後の正徳5年(1715)修史事業が完了し『大日本史』(正徳本)と名付けられた。

 

 その後も事業は継続され、享保5年(1720)には覚兵衛らが享保本『大日本史』を完成させたが、元文2年(1737)覚兵衛死後、修史事業は実質的に休止状態にあった。

 

 天明6年(1786)総裁となった立原翠軒(江館)は光圀百年忌に向けて修史事業を復興させ、寛政11年(1799)光圀廟に献じたが、その過程で藤田幽谷(水館)との対立も生んだ。

 

 会沢正志斎は天明2年(1782)水戸藩士・会沢恭敬の長男として生まれ、10歳で幽谷(当時18歳)の私塾に入門した。寛永11年に水館に入り、享和3年(1803)江館勤務となる。

 

 文化13年(1816)徳川斉脩が8代藩主となる。文政4年(1821)斉脩の弟らの侍読を命じられ、松平敬三郎(当時22歳、後の徳川斉昭)らの教育係となる。

 

 文政7年(1824)藩領の大津村に英国の捕鯨船員が食糧を求めて上陸、取調べに加わった正志斎は翌年に尊王攘夷論を纏めた『新論』を斉脩に上呈したが、斉脩は公には発表を控えた。

 

 文政9年(1826)幽谷の死により彰考館総裁代役に就任、文政12年(1829)斉脩(33歳)の病状が悪化すると、保守・門閥派は大御所・徳川家斉の21男・恒之丞(後の紀州藩主・斉彊)の擁立に動く。

 

 これを知った正志斎は山野辺義観や藤田東湖(幽谷の子)らとともに敬三郎擁立のため江戸に出て奔走する。斉脩の死後まもなく敬三郎を養嗣子とする旨の遺書が見つかり、敬三郎(斉昭)が9代藩主となった。

 

 文政13年(1830)彰考館総裁となるなど斉昭に取り立てられて藩政改革を補佐、天保9年(1838)学校造営掛となり、天保11年(1840)藩校・弘道館の初代教授頭取となり、翌年開校する。

 

 弘化2年(1845)幕府から藩政改革の行き過ぎを咎められ隠居・謹慎を命じられると、正志斎も蟄居を命じられる。嘉永2年(1849)斉昭の藩政復帰とともに赦免され、後に教授復帰した。

 

 尊王攘夷論が盛んになると、正志斎の『新論』は多くの志士たちに読まれるようになった。嘉永4年(1851)吉田松陰は水戸来訪時に正志斎に6度にわたり面会した。

 

 安政5年(1858)日米修好通商条約が締結されると、水戸藩に朝廷から壬午の密勅が下る。正志斎は密勅の諸藩への回送に反対して朝廷への返納を主張し、尊王攘夷激派と対立した。

 

 安政6年(1859)安政の大獄で斉昭が永蟄居になるなど水戸藩は大混乱に陥り、正志斎は尊王攘夷鎮派の領袖として事態の収拾に努めたが、混乱は収まらなかった。

 

 文久2年(1862)将軍後見職・一橋慶喜(斉昭の子)に『時務策』を上呈して開国論を説き、変節・転向と受け取られ、激派から老耄と批判された。翌年に水戸にて82歳で死去した。

 

 なお維新後も水戸藩の修史事業は継続されることとなり、彰考館は規模を縮小して偕楽園に移され、明治39年(1906)水戸徳川家13代・徳川圀順により『大日本史』は完成を見た。

 

 

以下、現地案内板より

 

彰考館跡

 

 水戸第二代藩主義公 徳川光圀は修史の志をたてて、明暦3年(1657)に大日本史(402巻)の編集をはじめた。寛文12年(1672)にその編集所を彰考館と名づけた。彰考とは「歴史をはっきりさせて、これからの人の歩む道を考える。」という意味である。

 当初は江戸小石川の藩邸内においたが、元禄11年(1698)に水戸城に移した。彰考館は、この二中の敷地の一部に当たり、廃藩置県となった明治4年(1871)までの173年間ここにおかれた。

 この編集には多くの学者が携わったが、なかでも澹泊齋 安積覚、十竹 佐々宗淳、翠軒 立原萬、幽谷 藤田一正、天功 豊田亮栗里 栗田寛などが有名である。水戸藩の全精力を傾注したこの大事業は、250年の歳月を費やして、明治39年(1906)にようやく完成した。

 由緒あるこの地に、その昔をしのび、これを建てる。

 

 

本間玄調ゆかりの地・弘道館医学館跡

 

 本間玄調(1804~1872)は水戸藩の藩医で、漢方ばかりでなく西洋医学も学び、それぞれの良いところを取り入れた医療を行った。また、藩校弘道館の医学館教授として後進を指導し、多くの著作も残している。

 9代藩主徳川斉昭とともに天然痘予防に尽力し、「牛痘」を使った種痘を広め、多くの人命を救った。後に斉昭から、「救」という名を賜ったことが、彼の功績をよく示している。

 

水戸市

 

 

水戸市指定文化財(建造物)水戸東武館(道場・正門附塀)

 

 水戸東武館は、弘道館の剣術指南役であった小澤寅吉(1830~1891年)が、弘道館閉館後の明治7(1874)年に創設した道場です。以来、弘道館の建学の精神の一つである「文武不岐」の額を掲げ、弘道館の武芸活動を継承しています。

 道場と正門及び塀は、昭和20(1945)年の戦火により焼失しましたが、昭和28(1953)年に再建し、平成27(2015)年に現在地に移築しました。建材や礎石に至るまで随所に意匠を凝らし、弘道館の武芸活動を継承するに相応しい重厚な建造物として、貴重な価値を有し、当時の町道場の風情を今に伝えています。

 

水戸市指定文化財(無形文化財)北辰一刀流

 

 北辰一刀流は、千葉周作成政(1794~1855年)が、父成勝の北信夢想流と浅利義信の小野派一刀流を合わせて起こしたものです。

 周作は、天保12(1841)年、水戸藩第9代藩主徳川斉昭に招かれ藩士となり、江戸の道場で教授する一方、水戸弘道館でも北辰一刀流を伝えました。

 明治になり弘道館が閉館した後は、門弟の一人である小澤寅吉によって技が継承されました。

 北辰一刀流の技は口述で伝承され、「一つ勝」「二本目」等43の形が伝えられています。現在は、水戸東武館古武道保存会によって伝承され、日々技の研究・研鑽に努めています。

 

水戸市指定文化財(無形文化財)新田宮流抜刀術

 

 新田宮流抜刀術は、水戸藩第2代藩主徳川光圀を警護し、剣術家として高い名声を得た水戸藩士和田平助正勝が大成した水戸藩独特の居合術の流派です。常に先手を打って相手を倒す実践性が特徴であり、光圀も習得したといわれ、藩外不出の剣術として、弘道館においても教授されました。

 新田宮流抜刀術は、水戸藩において創始され、今日まで継承されている唯一の武芸として、貴重な価値を有し、現在は、水戸東武館古武道保存会がその技を保持しています。

 

水戸市教育委員会

 

 

水戸市指定文化財  工芸品 銅造燈籠

所有者 東照宮  指定年月日 昭和54年8月3日

 

 水戸藩祖徳川頼房(威公)が、祭神徳川家康の三十三回忌にあたる慶安4年(1651年)に奉納したもので、高さ2m90cm、竿は円筒で下部にひろがり、張りを見せ、節の上下一面のまがきに菊を配し、ここに「奉献銅燈篭両基東照宮尊前慶安四年四月十七日、正三位行権中納言源頼房」の銘がある。

 火袋は円形を四角にたち、唐草の透彫りの中央に葵紋と天女を二面対に配し、格狭間の上に笠が軒八角に冠り、わらび手は竜頭により空間に二重に巻き上げられて趣向をこらしている。

 

水戸市教育委員会

 

 

好文亭(こうぶんてい)

 

 好文亭は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が詩歌・管弦の催しなどをして家中の人々とともに心身の休養をはかるために天保13年(1842年)に建てたものです。

 好文というのは梅の異名で、「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば梅の花が開かなかった」という中国の故事にもとづいて名付けられました。

 建物は木造二層三階建ての好文亭本体と北につながる奥御殿(平屋造り)からなり、全体を総称して好文亭と呼んでいます。斉昭はその位置から建築意匠まで自ら定めたといわれています。

 奥御殿を設けた理由は、万一城中に出火などあった場合の立ち退き場合として備えられたためと、当時藩内では管弦など禁制であったので城中の婦人達のため遊息の場所としたという配慮があったようです。

 昭和20年(1945年)8月2日未明の空襲で全焼しましたが、昭和30年(1955年)から3年をかけて復元されました。昭和44年(1969年)9月落雷により奥御殿と橋廊下は焼失しましたが、昭和47年(1972年)2月に復原されました。

 平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では壁の崩落など大きな被害を受け閉館を余儀なくされましたが、平成24年(2012年)2月に復旧しました。