常陸 水戸城③(弘道館) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①弘道館正庁・至善堂②正門内側③八卦堂④鹿島神社⑤孔子廟⑥学生警鐘

 

訪問日:2023年4月

 

所在地:茨城県水戸市

 

 市川三左衛門弘美(ひろとみ)は文化13年(1816)水戸藩士・市川弘教(1000石)の次男として生まれた。天保14年(1843)兄・弘業の死去により家督を継ぐ。

 

 下士層から藤田東湖や武田耕雲斎らを登用して藩政改革を進めた藩主・徳川斉昭が、弘化元年(1844)幕府にその行き過ぎを咎められて強制隠居させられ、13歳の嫡子・慶篤が藩主となる。

 

 弘美は水戸藩の要職を歴任し、門閥派(保守派)の重鎮として改革派(天狗党)と対立、嘉永2年(1849)前藩主・徳川斉昭の藩政参与が許されると、その対立は激しさを増した。

 

 安政5年(1858)日米修好通商条約が締結されると、これを批判した斉昭は謹慎を命じられる。改革派の運動の結果、孝明天皇より直接水戸藩に幕政改革を指示する勅書を(戊午の密勅)を受ける。

 

 幕府は勅書の返納を求めたが、水戸藩は改革派も尊攘激派と尊攘鎮派に分かれ、門閥派との三つ巴の対立はさらに激化した。安政6年(1859)幕府は家老・安島帯刀ら水戸藩改革派を断罪する(安政の大獄)。

 

 また斉昭は永蟄居、慶篤も差控となった。激派は安政7年(1860)3月に桜田門外の変を、7月には坂下門外の変を起こす。同年8月には斉昭が死去し、水戸藩の混迷はますます深まった。

 

 元治元年(1864)激派が横浜鎖港を求めて筑波山に挙兵(天狗党の乱)、弘美らは弘道館諸生を中心とする部隊(諸生党)を結成してこれに対抗した。実は弘道館には門閥派が多かったようだ。

 

 幕命を受け慶篤の名代として派遣された宍戸藩主・松平頼徳率いる大発勢には改革派(尊攘鎮派)も多かったため、弘美らはこれに主導権を奪われることを嫌って水戸城入城を拒み戦闘となった。

 

 敵の敵は味方と天狗党が大発勢に加勢する動きを見せたことを利用して、弘美は到着した幕府追討軍に天狗党とともに大発勢も討伐対象とすることに成功し、その支援を受け勝利した。

 

 敗れた天狗党は水戸藩領を離れ、斉昭の子で禁裏御守衛総督の一橋慶喜を頼り西上するが越前で投降した。この情報を得た弘美は女児・幼児を含む天狗党指導者の遺族を殺害するなど徹底的に弾圧する。

 

 藩政を掌握した弘美だったが、将軍となった慶喜が慶応4年(1868)江戸城を明け渡して水戸に謹慎と決すると、水戸藩本圀寺勢(皇室や慶喜を警護していた改革派)は新政府より諸生党追討令を受ける。

 

 弘美は諸生党500を率いて水戸を脱出し、北越戦争や会津戦争などと転戦して官軍と戦う。会津藩が降伏すると、諸生党らは手薄となっていた水戸を目指した。

 

 これを知った改革派の山野辺義芸は兵を水戸城に終結したため、弘美らは三の丸の弘道館を占拠し激しく戦ったが、弘美の息子2人が討死するなどして敗れ、下総方面に逃れた。

 

 113人となって匝瑳郡八日市場に到着すると、弘美は解散の意思を伝えるも、数十人が最後まで戦う意思を示し、八日市場の町が戦場になることを避け、松山村の台地に最後の陣を張った。

 

 押し寄せた本圀寺勢らの1000兵の前に諸生党は壊滅し、その後八日市場の町は蹂躙された。弘美はなおも再起を図って東京に潜伏するが、明治2年(1869)水戸藩捕吏に逮捕され、水戸で極刑に処された。

 

 弘美は潜伏中にフランス語を学び、フランスへの亡命を企てたが、密航当日の天候不良のため中止となった。捕縛されたのはその翌日のことだったという。

 

 

以下、現地案内板より

 

弘道館について

 

 弘道館は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が推進した藩政改革の重要施策のひとつとして、天保12年(1841)創設された藩校です。

 藩校としては日本最大規模の約3万2千坪(約10.5ヘクタール)の敷地面積を有し、正庁(学校御殿)・至善堂をはじめ、文館・武館・医学館・天文台・鹿島神社・孔子廟・八卦堂などが建ち並び、また、馬場や広い調練場も整備され、総合大学のような偉容を示していました。

 明治元年(1868)、弘道館の戦いと呼ばれる藩内抗争で文館・武館・医学館などを失い、明治5年の「学制」発布により、弘道館は藩校としての役割を終えます。明治・大正期の弘道館は、県庁舎や学校の仮校舎、公園として活用されました。その後、昭和20年(1945)の戦災によって、鹿島神社・孔子廟・八卦堂が焼失するなか、正庁・至善堂は市民の消火活動で奇跡的に災禍をまぬがれました。

 弘道館は、「旧弘道館」という名称で大正11年(1922)に史跡、昭和27年(1952)に特別史跡に指定され、同39年には創建時から現存する正門・正庁・至善堂が重要文化財に指定されています。

 平成23年(2011)に発生した東日本大震災では、建造物の多くが甚大な被害をうけましたが、約3年にわたる復旧工事を経て、同26年に全面復旧しました。