兵庫県 陸軍加古川飛行場/陸軍航空通信学校尾上教育隊 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①陸軍加古川飛行場跡②飛行場跡案内板③尾上教育隊兵舎基礎④同トイレ跡⑤兵舎跡⑥隊門跡

 

訪問日:2023年2月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 昭和19年(1944)6月19日〜20日のマリアナ沖海戦で日本軍は壊滅的敗北を喫し、マリアナ諸島の大半を米軍に占領され、西太平洋の制海権と制空権を完全に喪失する。

 

 これを受けた6月25日の元帥会議で、元帥海軍大将・伏見宮博恭王が「陸海軍とも何か特殊な兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない〜〜」と発言する。

 

 陸軍参謀本部総長・東條英機と海軍軍令部総長・嶋田繁太郎は2〜3考案中と返答する。かねてより検討されていた特攻を採用することが、この日事実上組織決定されたといわれている。

 

 10月20日、海軍は敷島隊など4隊を編成、神風特別攻撃隊と命名された。陸軍でも10月21日、鉾田教導飛行師団で、やや遅れて浜松教導飛行師団で編成されてフィリピンに移動し、萬朶隊・富嶽隊と名付けられた。

 

 しかし零戦など小回りの利く小型機による海軍の特攻ほどの成果が挙がらなかったため、陸軍も隼(一式戦闘機)などの小型機による特攻隊を編成し、八紘隊と名付けた。

 

 フィリピンの戦いで、海軍は333機、陸軍は210機を投入し、それぞれ420名、251名の搭乗員を犠牲にした特攻により、米軍の艦艇22隻沈没、110隻損傷という成果を挙げ、米軍を恐怖に陥れた。

 

 しかし、米軍の進撃を止めることはできなかった。昭和20年(1945)2月19日、米軍は硫黄島に、さらに4月1日にはついに沖縄本島に上陸、そして4月6日には沖縄特攻が開始される。

 

 この菊水一号〜十号作戦における陸軍の特別攻撃隊は振武隊と名付けられた。加古川飛行場からは第76振武隊、第213振武隊、第214振武隊が編成された。

 

 菊水四号作戦・第4、5次航空総攻撃(4月21日〜29日、第76振武隊から28日、岡村中尉以下6名の97式戦闘機6機が知覧基地を出撃)では、海軍65機、陸軍50機の特攻機の損失を出した。

 

 この攻撃で掃海艦・スワローなど3隻を撃沈、米軍の戦死者は249名、負傷者は428名であった。これには陸軍看護婦6名を含む39名が死亡、52名が負傷した病院船・コンフォートが含まれる。

 

 菊水六号作戦・第7次航空総攻撃(5月11日〜14日、第76振武隊から11日、久富少尉以下3名の97式3機が知覧基地を出撃)では、海軍70機、陸軍80機の特攻機の損失を出した。

 

 この攻撃では11日、米軍の戦死者は612名、負傷者は741名であった。中でも米旗艦空母バンカーヒルは戦死者・行方不明者402名、負傷者264名に及び、戦線離脱して空母エンタープライズに旗艦を譲った。

 

 その空母エンタープライズも3日後には特攻攻撃により発着艦能力を喪失して戦線離脱した。また、戦艦ニューメキシコも大きな人的被害を出した。

 

 菊水八号作戦・第9次航空総攻撃(5月28日〜29日、第213振武隊からはともに伍長である松下・蘆田の97式2機が出撃)では、海軍60機、陸軍50機の損失を出した。

 

 この攻撃では、海軍の練習機・白菊が活躍し、駆逐艦ドレクスラーを撃沈、これを含む米軍の戦死者は237名、負傷者は174名であった。

 

 菊水九号作戦・第10次航空総攻撃(6月3日〜7日、第214振武隊から3日に谷口ら4人の伍長、10日に伍長・金井が知覧基地を出撃)では、海軍20機、陸軍55機の損失を出した。

 

 この攻撃では、駆逐艦・ウィリアム・D・ポーターを撃沈、戦艦ミシシッピなどを撃破した。米軍の戦死者は32名、負傷者は252名であった。

 

 6月23日、陸軍大将・牛島満が自決し、沖縄本島での日本軍の組織的戦闘は終結、6月21日〜22日の菊水十号作戦・第11次航空総攻撃で大規模な特攻作戦は最後となった。

 

 沖縄特攻では海軍機940機、陸軍機887機が特攻を実施し、海軍2045名、陸軍1022名が特攻により戦死した。133機が命中、米艦艇36隻を撃沈した。米軍の戦死者は4907名、負傷者4824名であった。

 

 

加古川飛行場跡

 

 かつて、この尾上の地には、関西の防空を担う日本陸軍の重要な飛行場として、昭和12年(1937年)12月に兵庫県で最初に造られた加古川飛行場があり、周辺地域には飛行場を中心として、航空分廠、航空通信学校、陸軍病院、高射砲隊、憲兵隊、爆弾貯蔵施設等などの重要軍事施設が置かれていた。

 太平洋戦争が始まり、ここで編成された飛行第13戦隊、第246戦隊は関西の防空はもとより、南方方面に進出し米英軍と死闘を繰り返した。昭和19年(1944年)10月に入るとフィリピンで始まった特攻作戦に本土からも多くの特攻機が、ここ加古川飛行場を中継してフィリピンに向かった。

 昭和20年(1945年)4月には戦いは台湾を越え沖縄での戦いとなり、本土において沖縄海域の米艦船攻撃のため特攻作戦が発動され、加古川飛行場でも第76、213、214振武隊が編成された。

 また、関東・中部方面より鹿児島県知覧に向かう特攻機の中継基地にもなり、多くの若者が沖縄海域に散っていった。戦いは日毎に激しくなり、飛行兵の消耗を補うために第1飛行教育隊も併設された。7月に入ると米戦闘機による空襲は播磨地方にも及び、明石、姫路地区は大きな被害を受けた。

 昭和20年8月15日、4年間に及んだ太平洋戦争は終結し、加古川飛行場跡地は広大な農地となり開発が進んだ現在、当時の飛行場の姿を窺い知ることは出来ない。

 

加古川飛行場を記録する会 代表 上谷昭夫

 

 

陸軍航空隊百十四教育飛行連隊発祥之地碑

 

昭和18年8月31日 戦闘第101教育飛行連隊を基幹として編成

昭和18年9月19日 北支南苑に到着

同地に於て 戦闘機基本戦技操縦教育を実地

昭和19年3月7日 第14教育隊と改称 部隊長 陸軍中佐 浦川八郎

昭和20年6月3日 特攻第111振武隊を沖縄西方海上に出撃散華せり

 

平成7年5月吉日 隼01会会長 友成久德

 

 

 当公園内には、戦前、旧陸軍(大阪陸軍航空通信学校尾上教育隊)の兵舎が建設され、約1,500人の隊員が駐留していました。

 戦後まもなく建物は取り壊されましたが、最近まで数多くの基礎石が存在していました。

 ここにあの不幸な歴史を二度と繰り返さないことを誓い、基礎石の一部を保存し、後世に伝えることにしました。