播磨 浜宮天神社 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①拝殿②鹿児の濱松③社殿④神門と能舞台⑤御旅所⑥参道

 

訪問日:2023年2月

 

所在地:兵庫県加古川市

 

 浜宮天神社は社伝によると、長和元年(1012)菅原道真公の徳を追慕して小祠を建てたのを起源とし、文安元年(1444)に社殿が建立されたと伝わる。

 

 文安元年といえば、6代将軍・足利義教が播磨などの守護・赤松満祐に殺害された嘉吉の乱の3年後で、前年に7代将軍・足利義勝が10歳で死去しており、将軍は空位であった。

 

 この年に京都では麹の製造・販売を独占していた北野麹座が、延暦寺の強訴に屈してその独占権の廃止を決定した幕府に抗議して北野社に立て籠もり、幕府軍に鎮圧され没落した事件が起きている。

 

 神社周辺は黒松が群生し、江戸時代には「加古の松原」と呼ばれており、寛文13年(1673)には社殿の大改築が行われ、広大な境内地を有し栄えていたという。

 

 昭和12年(1937)加古川河口東側付近の加古郡尾上村(現・加古川市)に陸軍加古川飛行場が開設され、飛行第13戦隊、飛行第246戦隊、第一教育隊が展開し、97式戦闘機などが運用された。

 

 また、昭和18年(1943)9月、浜宮天神社参道の東側の官有林に陸軍航空通信学校尾上教育隊が設置され、全国から集まった約1500人の少年通信兵が教育を受けた。また西側には加古川第一陸軍病院も併設された。

 

 昭和20年(1945)5月には、加古川教導航空通信団として、司令部、第一教育隊(加古川)、第一教導整備隊、第二教育隊(尾上)、第三教育隊(神野)、第四教育隊(熊本県菊池郡)に改編された。

 

 各教育隊では、主に少年飛行兵(第15期生)の教育を担当し、また陸軍幹部候補生(第1期生)も入校した。4個教育隊合わせて7050名の教育を計画していた。

 

 戦後、尾上教育隊の建物は浜の宮中学校の教室となり、その移転後は取り壊されて、現在は浜の宮公園となり、門柱や基礎などの一部の遺構を残して元の松林に戻っている。

 

 

以下、現地案内板より

 

浜宮天神社

 

 菅原道真公を主祭神に、文安元年社殿を建立し、特に学問の神様として祀られている。境内には、菅公御手植の加古の浜松(2代目樹齢500年)がある。

 主な祭典行事には、1月1日〜5日・初詣、1月25日・初天神祭、6月30日・和抜祭、7月25日・天神夏祭、10月10日・秋例大祭、11月15日・七五三祭等があり、大勢の人々で賑う。

 

加古川市 加古川市観光協会