播磨 尼子山城② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主郭②家島や千種川眺望③副郭④湧泉地⑤磐座⑥尼子将監墓

 

訪問日:2021年11月

 

所在地:兵庫県赤穂市

 

 17年前に登山口を確認したが、尼子神社からの登山道ができたようで、そちらから攻略した。
 
 尼子晴久が天文20年(1551)備前に侵攻すると、播磨室山城主・浦上政宗はこれに同調し、対立する弟の浦上宗景は備前天神山城に拠り、天文23年(1554)毛利元就と同盟する。

 

 政宗の要請により、晴久は弘治元年(1555)嫡子・尼子義久を援軍として播磨に送り込んだ。義久は尼子山城に拠ったと思われる。

 

 しかし義久は永禄3年(1560)父・晴久の急死により21歳で家督を継いだ。尼子山城が落城したという永禄6年(1563)には播磨にはいなかったはずである。

 

 この頃、義久は元就に本拠出雲を侵攻されており、同年には政宗・宗景兄弟が和睦し、宗景は毛利氏と断交して独立した戦国大名の道を歩み始める。

 

 尼子山城の永禄6年落城が正しいとすれば、和睦により無用となった尼子将監(義久とは別人)は政宗の攻撃を受け、討死してこの地に葬られたと想像する。
 
 永禄8年(1565)義久は元就に月山富田城を包囲されて降伏し、安芸円明寺に幽閉された。その後長門にて出家し、慶長15年(1610)71歳で死去している。

 

 

以下、標柱より

 

標高259mの尼子山にある。城主は尼子詮久(後の晴久)の長子、尼子義久といわれている。1563年に落城したとされる。