紀伊 大島 樫野埼 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①灯台と官舎②灯台より官舎③慰霊碑④慰霊碑と遭難現場⑤遭難現場⑥アタテュルク像

 

訪問日:2021年5月

 

所在地:和歌山県東牟婁郡串本町

 

 1889年(明治22年)7月、オスマン帝国海軍の木造フリゲート艦・エルトゥールル号(1864年建造)がコンスタンティノープル(現・イスタンブール)を出港する。

 

 苦難の末、1890年6月に日本に到着し、皇帝・アブデュルハミト2世の親書を明治天皇に奉呈し、1890年(明治23年)9月、台風の時期にも拘らず横浜港を出港した。

 

 9月11日夜、強風に煽られたエルトゥールル号は樫野埼の岩礁に激突、機関部への浸水による水蒸気爆発を起こし水没、乗組員600名以上が海に投げ出される。

 

 生存者のうちの約10名が数十mの断崖を這い上って灯台にたどり着いた。対応した灯台守は国際信号旗を示して彼らがオスマン帝国海軍軍艦の乗組員であると確認した。

 

 これを知った大島村樫野の住民らは総出で乗組員の救助にあたり、69名の救出に成功したが、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。

 

 連絡を受けた神戸港のドイツ海軍砲艦・ウォルフが大島に急行し、生存者69名を神戸の和田岬に搬送、明治天皇は政府に可能な限りの援助を指示した。

 

 同年10月、日本海軍のコルベット艦・比叡と金剛が品川を出港し、神戸港で生存者を分乗させ、翌1891年(明治24年)1月、コンスタンティノープルまで送り届けた。

 

 この遭難は衰退したオスマン帝国の国力を誇示したいアブデュルハミト2世の意思による老朽艦の無謀な航海という側面は無視され、帝国内では美談として語られた。

 

 日本でも大きな衝撃を呼び、山田寅次郎(のち茶道宗徧流家元・宗有)は1892年(明治25年)集めた義捐金を携えてオスマン帝国を訪れて大歓迎を受けた。

 

 第一次世界大戦に同盟国側で参戦したオスマン帝国は1918年(大正7年)連合国に降伏し、その領土の多くは分割占領され、これに抵抗する形でトルコ革命が起こる。

 

 1922年(大正11年)メフメト6世が廃帝され亡命し、オスマン帝国は完全に滅亡。翌年にはムスタファ・ケマル・アタテュルクがトルコ共和国の初代大統領に就任する。

 

 それでもトルコの人々の日本に対する好印象は継続され、1925年(大正14年)日本政府とトルコ共和国は正式に国交を結ぶ。

 

 時は移り、イラン・イラク戦争中の1985年(昭和60年)イラク大統領のサダム・フセインはイラン上空の航空機を48時間後から無差別に攻撃すると宣言する。

 

 当時の自衛隊は在外邦人救護ができず、JALは安全の保証がなければ臨時便は出せないとして日本人はイランから脱出できないという状況に陥る。

 

 在イラン日本大使がトルコ大使に窮状を訴えると、トルコ航空が自国民救援のための旅客機を2機に増やし、215名の日本人がこれに分乗して期限直前に脱出することができた。

 

 トルコ政府が陸路で脱出できる自国民より日本人を優先して救出したのは、このエルトゥールル号遭難時の日本から受けた恩義に報いるためでもあったという。

 

 

以下、現地案内板より

 

樫野崎・古座鯨方・鯨山見

 

 明治2年3月1日、樫野崎突端にあった小屋を壊して、樫野埼灯台の建設が始まった。この小屋は11月から2月までの冬季に、東端から寄りつく鯨を見張る古座鯨方の鯨山見小屋だった。

 明和7(1770)年の天満橋屋長左衛門の記録によれば、元和年間から捕鯨が始まったと記され、捕鯨漁は古座組(旧古座町)・江田組(旧串本町)の地域経済をささえる地場産業だった。

 江戸期に描かれた古座鯨方捕鯨絵図に山見小屋も描かれ、屋内に二人の山見旦那と屋根に立って両手に旗を持ち、鯨船の進退を指揮している様子を伺うことが出来る。

 

古座鯨方捕鯨絵図

注意「日本遺産・鯨と共に生きる」の古座鯨方捕鯨絵図の右端に「熊野太地捕鯨絵図」と書かれていますが、昭和30年代に和中氏蔵の原画を模写した時、古座を太地と誤って書かれたものです。(太地町くじらの博物館蔵)

「古座町資料」「捕鯨編絵図資料」には和歌山市在住の和中氏の原画が載っています。

 

 

樫野埼灯台旧官舎

 

灯台守が執務室や住居として使うために建てられたこの官舎は、明治3年(1830)に英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントン(Richaed Henry Brunton)が日本で最初に竣工させた石造りの歴史的建造物です。

江戸幕府が開国にあたり、慶応2年(1866)の江戸条約により、灯台設置が決められたことに伴い建設されたものであり、首長にブラントンが選ばれ、洋風石造建築として完成しました。ここはトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事件(1890)の際、救助の拠点となったことでも知られ、両国の友好にとっても大切な建物です。2011年3月の修理にあたっては、古い部材を出来るだけ残して昔の姿に再現され、ドアなどの木部には「木目塗り」と呼ばれる珍しい技法が施されています。竣工当時は現在の三角屋根ではなく、四角い箱の形をしていたことが新たに分かりました。また海に面した側の外壁は、航行する船舶から見えやすいように、昔のように白く塗り分けられています。

 

 

ムスタファ・ケマル・アタテュルク騎馬像

(1881~1938)

 

 第一次世界大戦後、分割占領された祖国解放に立ち上がったムスタファ・ケマル・アタテュルクは、指導者としてこの戦争を勝利に導いたトルコ国民の偉大な英雄である。

 アタテュルクは初代大統領として、あらゆる分野で改革を行い、祖国の近代化を成し遂げた建国の父として今尚、国民から深い尊敬を受けている。

 この騎馬像は日本トルコ友好の礎を築いた軍艦エルトゥールル号の遭難120年に当る年に更なる両国友好の発展を祈って駐日トルコ共和国大使館より串本町に寄贈されたものである。

 本像の串本町への寄贈、設置にあたり支援をいただいた駐日トルコ共和国大使館、日本財団をはじめとする多くの方々に深甚の感謝を捧げるものである。

 

2010年6月3日 串本町