訪問日:2020年11月
所在地:京都市山科区
貴宮秀憲王は寛文9年(1669)後西上皇の第6皇子として生まれた。母・六条局(梅小路定子)は天台僧・光源寺智秀の娘で六条(梅小路)定矩の養女。
異母兄に大老・酒井忠清に将軍に擁立されたとされる有栖川宮幸仁親王がいる。貴宮は延宝2年(1674)山科毘沙門堂門跡門主・公海のもとで受戒する。
延宝6年(1678)親王宣下を受けた直後に出家得度し、公弁法親王となる。元禄3年(1690)輪王寺門跡・寛永寺貫主として東国に下向し、輪王寺宮と尊称される。
元禄6年(1693)天台座主に就任、歴代輪王寺宮は一部の例外を除き天台座主を兼務し、「三山管領宮」(比叡山・東叡山・日光山)とも呼ばれた。
天台座主に就任すると、その政治力により延暦寺と境界を争う八瀬郷(八瀬童子)の寺領入会権の剥奪を幕府に認めさせる。(宝永4年・1707復権)
元禄11年(1698)露座であった上野大仏の仏殿を造営、また邪教とされた真言立川流の行法を摘発し、これを完全に消滅させた。
元禄15年(1702)の赤穂事件では将軍・徳川綱吉から浪士らの処断について諮問を受けるが、法親王は敢えて助命を要請せず、切腹命令を促したという。
産業振興の逸話に富み、日光山には漆の植樹を奨励し、日光の漆器の産業化を確立した。正徳元年(1711)には日光八景を選定した。
また、寛永寺末寺である深大寺で供応された蕎麦を気に入り、殿中で盛んに話題にしたことから深大寺蕎麦の名声が多いに高まったという。
さらには、「江戸の鶯は訛っている」として京都から美声で早鳴きの鶯3,500羽を取り寄せ、根岸の里に放鳥し「初音の里」として名所となる。これが鶯谷の由来という。
正徳5年(1715)諸職を辞して毘沙門堂門跡に隠棲、正徳6年(1716)48歳で薨去、同門跡に葬られた。
毘沙門堂門跡の勅使門・霊殿・宸殿は父帝崩御後に公弁法親王が拝領し、御所から移築したものである。
以下、現地案内板より
毘沙門堂
護法山と号する天台宗の門跡寺院で、春の枝垂桜と秋の紅葉が美しい山科の名刹として知られている。
寺伝によれば、大宝3年(703)に上京区の相国寺の北に創建された出雲寺が起こりと伝えられ、延暦年間(782〜805)に最澄(伝教大師)が自ら作った毘沙門天を安置したことから、毘沙門堂と呼ばれるようになったという。
平安末期以降、度重なる戦乱で荒廃したが、天台宗の僧・天海とその遺志を継いだ弟子の公海により、江戸時代の寛文5年(1665)に現在地に再建された。その後、後西天皇の皇子・公弁法親王が入寺し、以来、皇族や摂関家の子弟が門主を務める「門跡寺院」となった。
正面の本堂に本尊の毘沙門天が祀られている。左奥の宸殿は後西天皇の旧殿を賜ったもので、狩野益信の筆による、見る角度によって目や顔の向きが変わる「天井の龍」や、逆遠近法で描かれた「九老之図」などの襖絵が有名である。その奥には晩翠園と名付けられた池泉回遊式庭園がある。
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