播磨 林田大庄屋 三木家住宅 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①主屋②主屋裏側③新蔵④米蔵⑤庭園⑥長屋門

 

訪問日:2020年11月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 林田大庄屋三木家は、天正8年(1580)羽柴秀吉の中国征伐により没落した英賀城主・三木通秋の弟・三木定通が林田に逃れて帰農したのが始まりという。

 

 初めは窪山城跡に屋敷を構えたが、元和3年(1617)建部政長が林田藩主として入部すると、2代・三木通貫はこれを明け渡して麓に移った。

 

 しかし牛馬の往来が激しく陣屋の門前を汚すため、3代・三木定久は寛永20年(1643)300mほど南の現在地に屋敷を移したという。

 

 林田(構)三木家は江戸時代を通して林田藩の大庄屋を務め、名字帯刀を許された。なお、初代・定通の次兄・三木通基は定通の縁により揖保郡香山村から林田にほど近い六九谷に移り、六九谷三木家としてともに栄えた。

 

 また、宗家の三木通秋も天正10年(1582)秀吉に赦されて英賀に戻り、郷土頭となって翌年に没し、子孫は3代目から姫路藩の大庄屋を務めている。

 

 

以下、現地案内版より

 

三木家住宅

兵庫県指定有形文化財(平成2年3月20日指定)

 

 三木家は、英賀城主三木氏の出自と伝えられている。天正8年(1580年)、羽柴(豊臣)秀吉による播磨侵攻により英賀城が落城した際、一族は各地に逃れた。当家は林田に来て帰農し、江戸時代を通じて林田藩の大庄屋をつとめた。

 古文書には、元々三木家は現敷地から300mほど北にあった林田藩陣屋の門前に居を構えていたが、三代定久(1603〜1675)の代、寛永20年(1643)に現住所に移されたことが記されている。

 建築時期は江戸初期と推定され、建築年代を推定できる大庄屋の建築としては県下最古であり、全国的にもこの時代の例は極めてめずらしく、民家史上重要な遺構といえる。