播磨 安志陣屋② | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①石碑②安志弁天宮③安志加茂神社④光久寺

 

訪問日:2020年11月

 

所在地:兵庫県姫路市

 

 小笠原貞幹は文政10年(1827)安志藩5代藩主・小笠原長武の次男として生まれた。弟に小笠原棟敬、天保10年(1839)父の死去により13歳で6代藩主となる。

 

 34歳となった万延元年(1860)本家の豊前小倉藩主・小笠原忠嘉が22歳で死去すると、末期養子として小倉藩9代藩主となり、忠幹と改名した。

 

 安志藩は長男の貞孚が11歳で継いだ。忠幹は翌年弟の棟敬を政治顧問として小倉に招くが、家老の島村志津摩や小宮民部と対立する。

 

 文久3年(1863)島村を品川台場警備に左遷するが、同年棟敬が死去すると、元治元年(1864)小倉に呼び戻した。

 

 しかし慶応元年(1865)第二次長州征伐を前に39歳で死去、4歳の次男・豊千代(忠忱)が家督を継ぐが、島村や小宮は忠幹の喪を秘した。

 

 第二次長州征伐では安志藩主の貞孚も参加して小倉口に長州藩と戦うが敗れ、総督で同族の唐津藩主・小笠原長行は戦線を離脱してしまう。

 

 小倉藩は孤立し、島村や小宮は小倉城を自焼して藩庁を香春に移した。慶応3年(1867)長州藩と和睦し、忠幹の喪が公にされた。

 

 慶応4年(1868)4月、貞孚は上洛して新政府に恭順、閏4月に従五位下信濃守に叙任された。

 

 明治4年(1871)廃藩置県で安志藩知事を免官となり、明治38年(1905)安志にて56歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

「伝承安富」を訪ねて(安富町安志)

 安志藩陣屋跡

 

 ここに、享保2年(1717)あら明治維新まで、小笠原氏が藩主として陣屋を構えました。小笠原氏は前任地大分県中津市から、はるばる安志へ1万石としてやってきました。

 1万石以下の館を城と言わず陣屋と呼んでいます。しかし1万石以上は大名とされたので、参勤交代では江戸まで行っていました。

 明治になって、ここに明倫小学校が置かれ、やがて安師第一尋常高等小学校となり、昭和9年(1934)2月焼失しました。その後、昭和24年(1949)ここに安富中学校が建築され現在に至っています。

 

2011年1月 安富中学校区地域夢プラン実行委員会

 

 

小笠原氏と松寿山光久寺

 

真言宗醍醐寺派に属す。播磨西国二九番札所。寺伝によると、旧安志藩主小笠原氏の元祖加賀美遠光が高倉天皇から賜った不動明王立像(国指定重要文化財)をまつるために、承安年間(1171〜1175)に創立したという。小笠原氏は移封ごとに一寺を建立して木造を安置するのを例としたので、享保2年(1717)豊前中津から最後の封地となった安志に留められた。不動明王立像、絹本著色迦諾伐蹉尊者像・注荼半託迦尊者像(現在、京都国立博物館に寄託)は国指定重要文化財、本堂は姫路市指定文化財となっている。

 

■不動明王立像(旧国宝)大正5年5月24日 (重要文化財)昭和25年8月29日

 光久寺本尊。高倉天皇恩賜の仏像。本体檜材一木造り。古色彫眼。像高131.9cm。平安時代後期の作。

 

■ 絹本著色迦諾伐蹉尊者像(重要文化財)昭和25年8月29日 絹本著色注荼半託迦尊者像

 仏画軸一幅。李竜眠風をもって画かれた羅漢像の好例で、南北朝時代の作。

 

■光久寺本堂(護摩堂)(姫路市指定)平成9年3月31日

 正面3間、側面3間の方形造。宮殿の桟唐戸の向かって右の唐草文様の小脇板の裏に、「享和二癸亥三月出来」とあり、享和2年(1802)に完成したことが判る。

 

平成20年9月 姫路市教育委員会