出羽 陣館遺跡 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①遠景②案内板③案内板④景正功名塚

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:秋田県横手市

 

 前九年の役で苦戦した鎮守府将軍・源頼義に懇願された俘囚系の清原光頼がこれに応じて康平5年(1062)派遣したのが弟とされる清原武則だった。

 

 武則が嫡子・武貞や娘婿の吉彦秀武らの大軍を率いて参戦すると、戦況は忽ち頼義優位となり、間もなく安倍貞任は捕らえられ、安倍氏は滅亡した。

 

 その功により武則は俘囚では初めて従五位下・鎮守府将軍に任ぜられ、安倍氏の奥六郡の旧領を得て陸奥に移るが、それまでの本拠が金沢といわれ、陣館遺跡だった可能性もある。

 

 武則の父については光頼と同じ清原光方の他、吉彦秀武の外祖父でもある清原武頼(光方と同一人物?)や海道平氏の平安忠説もある。

 

 また妻は安倍頼清(安倍頼時?)の娘で、後に後三年の役で家衡とともに金沢柵に籠る清原武衡の母とされる(武貞の母は不明)。

 

 武則の最期については不明。前九年の役終結時にすでに孫の真衡がいたので、間もなく死去したのかもしれない。

 

 延久2年(1070)陸奥守・源頼俊(大和源氏)に協力して延久蝦夷合戦を戦い、功により鎮守府将軍に任ぜられた清原貞衡は武貞の別名とも真衡の誤記ともいわれる。

 

 また、武則を海道平氏出身としてその弟、あるいは海道出身の武貞の娘婿の説もあり、となると後年真衡が海道平氏から成衡を迎えたのも不自然ではなかった。

 

 近年はこの海道平氏説が有力とのことだが、あえて貞衡=武貞説を取りたい。理由は武貞の息子3人が真衡・清衡・家衡と「衡」の字を付けているからという理由だけである。

 

 

以下、現地案内板より

 

国指定史跡 陣館遺跡(正式名称 大鳥井山遺跡附陣館遺跡)

 

 後三年合戦(1083~1087)は、陸奥・出羽両国(現在の岩手・秋田県)の大部分を治めていた清原氏の内紛に、陸奥国の国守として赴任してきた源義家が介入し、清原氏が敵と味方に分かれて戦った中世武士の世の幕開けとなる日本史上重要な合戦といわれています。金沢柵で源義家と敵対した清原氏は滅亡しますが、義家方に組した清原氏は生き延びます。その代表的な人物が平泉の中尊寺金色堂などを作った藤原(清原)清衡です。

 金沢柵は、200年以上も前から探索されてきましたが、はっきりとした柵の所在場所については不明でした。横手市教育委員会では、清原氏関連遺跡として平成22年2月に国指定史跡となった大鳥井山遺跡と立地や地形などが似ている陣館遺跡の発掘調査を行いました。

 調査の結果、北東尾根平坦部からは、大鳥井山遺跡と同じような国司の館や寺院などに見られる四面庇掘立柱建物跡が検出されました。この建物は、桁行7間(14.1m)、梁行5間(9.9m)の面積約140㎡の大きな建物で、羽州街道から見ると斜面の段状地形に囲まれるように建っています。さらに、この建物に向かって、補修を繰り返しながら長い期間使用された参道と考えられる道路跡も確認されました。建物と段状地形、参道の関係は、中尊寺金色堂の周辺状況と類似しています。

 また、陣館遺跡の南東斜面部の段状地形からは後三年合戦前後のものと見られるロクロ土師器(かわらけ)と内耳鉄鍋が金沢地区で初めて出土しました。当時、鉄鍋は最先端の道具であり、権力者しか持つことが出来ませんでした。藤原清衡の館と見られる国史跡柳之御所遺跡の堀跡からも同様のものが出土しており、地鎮のために埋められた可能性があります。

 以上のことが国の文化審議会によって評価され、陣館遺跡は清原氏関連遺跡として平成29年10月13日に国史跡大鳥井山遺跡附陣館遺跡として追加指定されました。

 

平成29年度 横手市元気の出る地域づくり事業

横手市文化財保護協会連絡協議会

横手市教育委員会文化財保護課

 

平成29年12月