出羽 金沢城(金沢柵) | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①本丸②二の丸金澤八幡宮③二の丸・北の丸堀切④北の丸⑤西の丸⑥東尾根連続堀切

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:秋田県横手市

 

 源義家は長暦3年(1039)源頼義の長男として生まれた。母は鎌倉を領した桓武平氏・平直方(北条氏の祖か)の娘で、直方は頼義に鎌倉を譲った。同母弟に源義綱、源義光がいる。

 

 後三年の役における義家の苦戦を知った義光が寛治元年(1087)官位を捨てて陸奥に駆けつけてともに戦った美談はよく知られている。

 

 義家は後三年の役終結後、事後承諾で追討官符を要求するも、朝廷は当然これを私戦とみなし恩賞も戦費の支払も拒否、寛治2年(1088)正月には陸奥守を解任された。

 

 義家は主に関東から募った将士に私財で恩賞を出した。また役の間、貢納を怠り、官物から兵糧などを支給したことから、これらの返還を請求された。

 

 一方、義光は刑部丞、常陸介、甲斐守を経て従五位上・刑部少輔に任ぜられた。特に常陸平氏の娘を妻として常陸国に地盤を築く。

 

 寛治5年(1091)河内国の所領を巡るそれぞれの郎党の争いから義家は次弟・義綱と合戦寸前に至り、関白・藤原師実の仲裁で兵を引いた。

 

 義綱は寛治7年(1093)陸奥守、嘉保元年(1094)従四位上に昇叙して義家と並び、嘉保2年(1095)には陸奥守より格上の美濃守に任ぜられる。

 

 承徳2年(1098)義家は陸奥守時代の官物返済を10年越しで果たし、白河法皇により正四位下に昇叙し、院昇殿も許される。

 

 康和3年(1101)対馬守に任ぜられたものの九州で暴れ回った次男・源義親の追討が議され、朝廷の命を受けた義家は義親召喚のため郎党を派遣するが失敗する。

 

 嘉祥元年(1106)には東国に下った4男・源義国が叔父・義光と常陸で合戦し、義家に義国召喚命令が下るが、同年68歳の義家は死去する。

 

 嘉祥2年(1107)配所の隠岐を脱出した義親が出雲国目代を殺害し、さらに勢力を拡大しようとするが、翌天仁元年(1108)白河法皇の命を受けた平正盛(清盛の祖父)に討たれた。

 

 天仁2年(1109)には義家の跡を継いだ3男・源義忠が暗殺され、犯人とされた義綱一族を義親の4男・源為義(義家の庶子とも)が追討し、義綱は佐渡島に流され、その子らは皆自殺した。

 

 天承2年(1132)になり佐渡で90歳になろうかという義綱は再び為義の追討を受け自害した。義忠暗殺の真の黒幕は義光だった(尊卑分脈)という。

 

 その後、源氏の勢力は衰え平家が台頭するが、為義の孫・源頼朝が登場し、義国からは足利氏・新田氏が、義光からは佐竹氏・武田氏・小笠原氏・南部氏などが発展し、後の歴史を動かしていく。

 

 

金沢柵推定地(金沢城跡と陣館遺跡)

 

[所在地] 秋田県横手市金沢中野字安本館ほか

[史跡指定] 未指定 [比高差] 95m

[年代] 金沢柵:11世紀後半〜寛治元年(1087) 

 金沢城:14世紀頃〜元和8年(1622)

[城主] 金沢柵:清原武則・清原武衡・清原家衡

 金沢城:南部家光(金沢右京亮)・南部家信(南部右京亮)・小野寺泰道・小野寺道秀・金沢権太郎(六郷正乗弟)*いずれも推定

 

[金沢柵推定地としての金沢城跡]

 地元では金沢柵の故地として金沢城跡が言い伝えられてきた。昭和40年代の発掘調査において、本丸の整地層からは14〜15世紀の中国産陶磁器(白磁の皿・碗、青磁の皿・盤・香炉、天目茶碗、茶入)・国産陶器(須恵器系陶器の甕・片口鉢、古瀬戸の壺・深皿)などが出土した。他の遺物は16世紀の瀬戸美濃大窯の丸皿などであることから、当地は金沢柵というより中世金沢城と捉えられていた。

 

[金沢柵推定地としての陣館遺跡]

 平成17年の市町村合併を契機に地域遺産を明らかにし活用するため、横手市教育委員会は後三年合戦関連遺跡の調査を開始した。清原光頼・頼遠の居館である大鳥井山遺跡では、大量の土器(かわらけ)と大規模な土塁と堀、柵列や櫓、そして四面庇掘立柱建物跡(館か寺院跡)などが確認され、平成22年に国指定史跡となった。

 その後、大鳥井山遺跡の地形と立地を考慮し金沢周辺を踏査したところ、金沢城の前城ともいわれる陣館遺跡が類似することが確認され、発掘調査が行われた。その結果、大鳥井山遺跡と同規模の四面庇掘立柱建物跡(寺院跡)を検出し、金沢地区で初めて清原氏時代の土器(かわらけ)や鉄鍋が出土した。しかし、陣館遺跡を金沢柵として考えると、戦いの痕跡も確認されていないことや、約35,000㎡では狭すぎるとの指摘があった。そのため過去に金沢城跡から出土した遺物の再確認をしたところ、本丸の整地層から清原氏時代の白磁碗があったことにより、再度金沢城跡の縄張調査と発掘調査を開始したのである。

 

[金沢城跡の構造と金沢柵の推定]

 城跡は本丸・二の丸・北の丸・西の丸(安本館)からなる多郭構造の山城で、曲輪間の比高差が大きく、土塁や多重堀切、縦堀などが非常に発達している戦国山城の姿を残している。この中で本丸・二の丸・北の丸の造成工事が著しく自然地形をほとんど留めていない。このことは北側に向けた防御機能を強化したことを意味するであろう。これに対し、西の丸(安本館)は自然地形を利用して土塁や堀などが作られている。早急な城の防御の必要がなかったために古い形態を残していることが想定される。本丸東尾根や二の丸北西尾根には粗野な造成の曲輪や散発的な堀切があり、比較的古い様相を残している。本丸南東尾根には内部に竪穴建物跡らしい窪みがあり、その曲輪の外側は空堀が周回していることから、城の中でも最も古い様相を残していることが考えられる。

 金沢城跡で金沢柵を突き止めるには、古い様相を残している場所を発掘調査し、内容を明らかにする必要がある。

 

[金沢柵・金沢城の歴代城主]

 金沢柵は清原武則の本拠地ともいわれているが、寛治元年(1087)に起こった金沢柵の戦いでは、清原武衡と家衡が籠城している。合戦後に金沢柵がどうであったか定かではないが、金沢城跡北側対岸の尾根には多くの経塚が営まれ、その中には仁安3年(1168)に金兼宗などの人物名が確認される。

 金沢城関係としては、『聞老遺事一』に、応永18年(1411)に仙北刈和野で起きた南部守行と秋田安東某との合戦があったことを伝えている。弘前城主津軽氏の系譜を書いた『津軽一統志』付巻には初代・2代に金沢右京亮の名が見える。また『国立史料館蔵津軽家文書』では、永享6年(1434)文書に初代家光、宝徳3年(1451)文書に2代家信が確認されることから、金沢右京亮はこれに比定される可能性がある。『蜷川親元日記』には、寛正6年(1465)に、南部氏が馬の献上を幕府から命じられ、仙北を通る際、小野寺氏が軍事力を行使して通路を塞いだという記事が見られる。『小野寺正系図』には南部三郎(金沢右京亮)の幕下であった小野寺泰道が、寛正6年(1465)から応仁2年(1468)の戦いで南部氏を破り、泰道の息子である道秀が金沢城主になったと記録されている。

 16世紀前半は小野寺氏の本拠地が沼館城となっているため、当地の様相は不明であるが、『奥羽永慶軍記』の弘治5年(1555)には、小野寺氏の当主稙道を敗死させた人物として横手光盛とともに金澤八幡宮の衆徒である金乗坊がいる。16世紀終わり頃の金沢は六郷氏所領分となっており、『奥羽永慶軍記』には、六郷正乗弟の金沢権太郎が確認できる。

 

[城跡の変遷]

 清原氏段階の金沢柵は陣館遺跡が金沢柵内の寺院跡と想定され、金沢城跡に柵本体があるのではないかと考えられるものの、今後の調査に委ねるところが大きい。14〜15世紀は南部氏の城であった可能性が高い。15世紀後半には小野寺氏が城の北側の大規模な造成工事を行ったと思われ、現在目視できる金沢城跡の姿になったと考えられる。元和8年(1622)に金沢城は廃城となり、その後佐竹氏によって金澤八幡宮の整備が行われ、現在に至っているものと思われる。

 

平成28年7月1日

贈 一般財団法人 東北地方郵便局長協会 

 秋田県東部地区郵便局長会 横手部会