越後 黒川陣屋 | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①旧黒川小学校跡②きすげこども園

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:新潟県胎内市

 

 甲府新田藩は柳沢吉保の4男・柳沢経隆と5男・柳沢時睦が1万石づつを与えられて立藩したが、享保9年(1724)長兄・柳沢吉里が甲府から大和郡山に移封されると経隆は越後黒川、時睦も同三日市に移封された。

 

 経隆から数えて7代目の黒川藩主・柳沢光昭は宗家の大和郡山藩主・柳沢保泰の10男として文政6年(1823)に生まれた。先代の柳沢光被は出羽新庄藩主・戸沢正親の娘を正室、光昭の姉を継室としていたが、後継に恵まれなかった。

 

 天保7年(1836)光被が死去すると、その末期養子となって家督を継ぐ。安政年間(1855-1860)黒川陣屋内に藩校・弘道館を設立し、江戸定府ながら文久3年(1863)初の国入を果たす。

 

 また、同年には奏者番、元治元年(1864)には寺社奉行の次席に相当する学問所奉行に任ぜられる。しかし学問所奉行は同年のうちに内外の政情多端を理由に廃止された。

 

 慶応4年(1868)戊辰戦争においては会津藩の申し入れに従い兵を出すが、宗家の郡山藩が新政府軍に与している関係もあってか消極的な活動に留め、同年閏4月には娘(鶴)婿の柳沢光邦(高家・武田信之の6男)に家督を譲っている。

 

 明治3年(1870)になり、継室の美濃大垣新田藩主・戸田氏宥の娘との間に長男(次男とも)・柳沢保恵が黒川にて生まれる。保恵は明治19年(1886)光昭の甥である宗家の旧郡山藩主・柳沢保申の婿養子となる。

 

 光昭は明治33年(1900)78歳で死去した。欧州留学中の保恵は帰国後、貴族院議員、東京市会議員、第一生命初代社長などを歴任する。また統計学者として研究所を設立し、坂田三吉ら将棋棋士との交流でも知られる。