越後 三日市陣屋 | ゆめの跡に

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On the ruins of dreams

①七葉中学校②七葉中学校③八幡宮④柳沢家家紋⑤石碑⑥案内板

 

訪問日:2020年8月

 

所在地:新潟県新発田市

 

 柳沢吉保の長男・柳沢吉里が、享保9年(1724)甲府から大和郡山に移封されると、甲府新田藩1万石の吉保の5男・柳沢時睦も越後三日市1万石に移封となった。

 

 時睦から数えて8代目の柳沢徳忠は、嘉永7年(1854)は先代・柳沢泰孝の長男として生まれた。母は肥前平戸新田藩主・松浦晧の娘。

 

 安政3年(1856)父が24歳で死去したため、わずか3歳で家督を継ぐ。新潟の海岸警備や安政大地震などにより藩財政は破綻寸前だったという。

 

 慶応4年(1868)戊辰戦争が勃発、4月に15歳の徳忠は歴代藩主で初めて三日市に入った。越後村松藩主・堀直休の娘・浪を正室とした。

 

 同様の経緯で立藩した柳沢光昭の越後黒川藩が消極的ながらも奥羽越列藩同盟に名を連ねていたが、三日市藩はこれに加盟していない。

 

 7月28日、新政府軍に恭順し、兵を先に寝返っていた新発田藩兵に合流させる。翌29日、新政府軍は新潟を制圧し、長岡城を再占領した。

 

 明治2年(1869)版籍奉還により三日市藩知事、明治4年(1871)廃藩置県、同年三日市県は新潟県に編入された。

 

 最後の大名(藩主)としては近江大溝藩主・分部光謙(版籍奉還後の4日間、昭和19年死去)、上総請西藩主・林忠崇(廃藩置県前に改易、昭和16年死去)、広島藩主・浅野長勲(昭和12年死去)が挙げられるが、徳忠も昭和11年(1936)まで生き、83歳で死去した。

 

 

以下、現地案内板より

 

史跡 三日市藩一萬石陣屋跡(館村陣屋跡) 新発田市上館

 

 三日市藩は、享保9(1724)年4月、徳川幕府8代将軍徳川吉宗の治世、柳澤吉保の長男吉里が甲府(山梨県)から大和郡山(奈良県)に転封になったことにより吉保の5男時睦に三日市藩一萬石を与えたことによって成立しました。

 陣屋は、初めここより南方1kmの三日市町に置かれましたが加治川の水害を避けて享保15(1730)年の初頭、当地(江戸期は館村)に移転してきましたが、その後も三日市藩と公称しました。

 左下図は、幕末頃の絵図の一部です。陣屋が石垣と堀で囲まれていることがわかります。当時は、御館役所あるいは館村陣屋と称されていました。8代藩主徳忠の時に明治維新を迎え、明治4(1871)年7月14日、廃藩置県により三日市県となり、同年11月20日には新潟県に編入されました。陣屋の大部分は七葉中学校の用地となっています。校門より国道7号線を挟んで正面に見える八幡宮は、三日市藩主(柳澤氏)も併せて祭っています。八幡宮の屋根には柳澤家の家紋である花菱紋があり、唯一、陣屋跡の名残を見ることができます。学校の西側に隣接する常勝寺には、三日市藩士の墓がいくつか確認されます。

 

平成24年5月 加治コミュニティ協議会