上野 古谷館(潜龍院) | ゆめの跡に

ゆめの跡に

On the ruins of dreams

①潜龍院の石垣②古谷館跡③岩櫃山を見上げる④潜龍院の石垣⑤岩櫃山⑥庭園跡

 

訪問日:2019年12月

 

所在地:群馬県吾妻郡東吾妻町

 

 天正10年(1582)3月2日、高遠城が陥落、織田信忠は翌日には兵を諏訪に進め、3月4日には徳川家康は寝返った穴山梅雪を案内役として甲斐侵攻を開始した。

 

 武田勝頼は3月3日に新府城を放棄して小山田信茂の岩殿城を目指すが、この時に真田昌幸は自領の上野岩櫃城へ逃れることを主張していたという。

 

 しかし勝頼は信茂の裏切りに遭い、岩殿城行きを断念して天目山を目指すが、3月11日、夫人(北条氏康の娘)や嫡子・武田信勝らとともに自害する。

 

 昌幸が勝頼を迎えるために3日で完成させていたのが古谷館とされているが、この話は昌幸が忠誠心をアピールするための作り話のような気がする。

 

 実際、この頃上野では北条氏政の弟・北条氏邦が昌幸の領地を脅かしており、勝頼をわざわざ上野に迎える合理的な理由がわからない。

 

 また以前より昌幸は氏邦や家康、上杉景勝と接触をしており、氏邦からは北条氏への降伏を求められていたという。

 

 少なくとも勝頼と運命をともにしようと考えるような人物とは思えないし、後の上田城の戦いのように籠城して踏ん張れば局面が変わる(本能寺の変を予期していれば話は別だが)ような状況でもなかっただろう。

 

 4月8日、昌幸は織田信長から所領を安堵され、上野を与えられた滝川一益の与力となった。沼田城には滝川益重が入り、昌幸は岩櫃城を維持した。

 

 しかし6月2日、本能寺の変が発生し、6月19日神流川の戦いで北条氏に敗れた一益は没落、7月9日昌幸は北条氏に降伏する。

 

 

以下、現地案内板より

 

潜龍院跡(せんりゅういんあと)

 武田勝頼を迎えようとした御殿跡

 

 戦国時代の天正10年(1582)3月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための御殿(現在は石垣が残るのみ)を3日間で造ったと言われています。

 しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。このときに勝頼が吾妻に赴いていたならば、この地は戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。

 急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領して寺とし、厳下山潜竜院と称して明治にいたり、明治17年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。

 

岩櫃城の概要

 

 本丸跡は、この地より直線で約750m、岩櫃山の東面に南北朝のころ築城されたといわれています。城郭の規模は136ヘクタールと上州最大規模を誇り、真田支配下の城として武田領内の三堅城と称されました。

 城主は吾妻氏、斎藤氏と続き、永禄6年(1563)武田信玄の家臣真田幸隆の支配下となり、真田の城として吾妻郡統治の中心的役割を果たしましたが、徳川家康が発した一国一城令(元和元年〔1615〕)によりその姿を消しました。

 

東吾妻町観光協会